第2回 文盲に生きた時代①「文化大革命の経験」

 そもそも、なぜ私は文盲だったのか。読者のみなさんにそれを理解してもらうには、私が幼少期を過ごした頃の中国がどのような時代にあったのか、そこからまずお話しなければならない。

 その頃の中国では、1966年にはじまった“文化大革命”と呼ばれる政治運動がなお吹き荒れていた。政治運動とは言うものの、それは政治の舞台だけにとどまるものではなく、多くの人々の人生そのものを搔き乱し、後世に計り知れないほど大きな爪痕を残した狂気と暴力の動乱であった。10年もの長きにわたって、中国に暮らす8億人以上の人々から宗教が奪われ、歴史の記憶と遺産が破壊され、ようやく芽生えつつあった人権や民主主義の思想もまた蹂躙された。なかんずく少数民族に対する警戒と統制は激しく、伝統的な習慣や信仰の多くが圧殺されていった。そうしたなか、私の故郷である内モンゴル自治区では、政治や学問の世界で仕事をしていた数多くの人たちが“分裂主義者”、“反革命分子”として糾弾され、罪を問われるようになっていた。

 私の父と母もまた、のちに“内人党事件”*1と呼ばれることになる混乱に巻き込まれ、歴史に翻弄された人たちだった。両親はともに内モンゴルのシリンゴル盟チャハル地方で生まれ、旧満州国で教育を受けて育った。1947年に中国共産党がシリンゴルの政権を掌握するとそこに参加し、父は公安・司法を統括する幹部として、母は教育部門で小中学校の設置を担当したのち国語と算数の教員として働くようになった。両親はシリンゴルの街で働いていたこの頃に知り合って結婚し、2人の姉、兄と私の4人の子宝にも恵まれた。ところが、“文化大革命”の時代になると徐々に暴力が身の回りに忍び寄るようになる。さらに“内人党事件”が始まるに至って、父は批判闘争や拷問を受けてついに帰らぬ人となり、母もまた5年近くのあいだ自由を奪われた。

 その混乱のさなか、両親は我が子に危険が及ぶのを避けるべく、親戚を頼って幼い私を草原へと送ったのだった。私の記憶は、この草原での遊牧生活から始まっている。幼かった当時の私は、なぜ自分が遊牧民なのかを考えたことはなかったし、ましてや世の中で何が起こっていたのか理解することすらできなかった。あずかり知らぬところで動いていた歴史の歯車から弾かれるかのようにして、私の人生は内モンゴルの草原から始まったのである。

 

祖父と祖母

 内モンゴル自治区シリンゴル盟ショローンツァガーン旗は、父の故郷だった。そこに暮らす父の3人の姉家族のうち、私は父と最も年齢の近い姉夫婦のもとに預けられた。それから9年近くの間を、私は叔母夫婦と一緒に暮らしたことになる。幼かった私は、自分を育ててくれたこの2人を祖父母だと思っており、そう呼んでいた。このため、この連載では以降も祖父母と呼ばせていただきたい。

 祖母はチェーダム生産隊(当時の行政の末端地域は“生産隊”や“人民公社”と呼ばれていた)の隣、バグノール生産隊で生まれ育った。人の紹介を受けて祖父と知り合い、祖父の故郷であるチェーダム生産隊で共に暮らすようになった。祖母は非常に勤勉で、きれい好きで、少し臆病な人だった。常に自然に恐れを抱き、信仰心が深かった。世の中で起こるすべてのことをボイン(良行、善)とニグル(悪行、罪)という観念からみる人だった。あるとき、落雷で近くのゲル(モンゴルの移動式住居)の倉庫が燃えたことがあった。それからというもの、祖母はそのゲルの所有者との付き合いを絶ってしまった。雷鳴は神の怒りであり、誰かの悪行や悪意の表れだというのである。

 一方、祖父はもともとイヒノール寺院(冬のキャンプ地から40km離れたところにある)のラマ(チベット仏教の僧侶)だった*2。ところが内モンゴル自治区の支配を中国共産党が握ると宗教が排斥されるようになり、多くのチベット寺院が破壊され、所属していたラマたちも弾圧を受けるか還俗を強いられた。ラマをやめさせられた祖父もまた、やむなく出身地に戻って遊牧民になったのであろう。だが、私からみた祖父はありとあらゆることを難なくこなす、遊牧民の鏡のような人だった。何百もの家畜を正確に覚え、見分ける眼を持ち、身の回りの道具ならば大抵のものを作れる手を持っていた。地域の人々からも頼られる人でありながら、威張っているところを見たことはなかった。優しく、謙虚な心で人と接し、それだけでなく草木や動物、天や大地と相対する人だった。

 

ソンデーおじさんの死

 祖父母とともに幼い私が暮らした場所は、コンシャンダック沙漠と呼ばれていた。そこは沙漠という名とはかけ離れた、水と草の豊かなところだった。私と祖父母が暮らしたゲルは、羊飼いの青年の家族、一人暮らしのおばあさん、そして「ラクダおじさん」とともに、4世帯からなるアイルのなかにあった。アイルとは、遊牧生活をともに営む人々による村のようなものだが、農村とは違って人の数は極端に少なく、それゆえに人間関係は濃密だった。文化大革命の時代、中国の人々は「貧しい遊牧民」「中牧民」「反革命分子」など政治的な格付けを与えられ、それによって数えきれないほどの差別と弾圧が生まれた。それでも、「トゥグルグ・アイル」という名のこの場所では、以前と変わらず互いに仲良く、協力して暮らしていた。誰かが「反革命分子」のレッテルを貼られようが、アイルのなかで中傷を受けるようなことはなかった。だが一方では、遊牧民の伝統的な共同体だったアイルが共産党統治システムのなかに統合されたこともまた事実であり、当時の政治運動と無縁でいられるはずもなかった。

 ソンデーおじさんは、イヒノール寺院で祖父とともに修行したラマで、やはり祖父と同じく共産党政府によって還俗を迫られた人である。家畜も家族もいなかったソンデーおじさんは、トゥグルグ・アイルに住む兄の「ラクダおじさん」のもとに身を寄せ、私たちとともに暮らすようになった。ある日のこと、私はゲルの外で乾燥した柳の枝を30センチぐらいにパキッパキッと折って、薪として使いやすいようにする作業をしていた。すると、ラクダおじさんが大きな長持ちを牛車に積んで村を出ていく姿が見えた。私はあわててゲルに戻り、「引っ越しするの?」と祖母に尋ねた。祖母はどうしてと聞き返し、私がラクダおじさんの後ろ姿を指さしながら「ほら、ラクダおじさんが引っ越ししているよ」と続けると、血相を変えて「引っ越しじゃない。早く薪をもってきなさい!」と怒鳴り散らした。ソンデーおじさんが政治学習に耐え切れずに殺虫剤(DDT)を飲んで死を選んだのだということは、ずいぶん後になってから分かった。この地域には、棺ではなく長持ちに遺体を納め、大地に埋めて帰す習慣があった。ラクダおじさんが運んでいた長持ちのなかには、ソンデーおじさんがいたのである。

 だが、当時の私にとって最も怖かったのは彼の死ではなかった。おそらくまだ死ということについて十分に理解できていなかったからだと思う。私が恐ろしさを感じたのは、むしろ偶然に砂のなかに埋もれた仏具や経典を見つけた時だった。腹の底が冷えるような感覚が走り、なぜだかは分からなかったが、とても悪いことをしてしまったと慌てふためいて、見つけたものを再び地面に埋め戻していた。これも後になって分かったことだが、宗教が民衆を惑わせる毒として否定されていた当時、仏道を歩んでいたソンデーおじさんが遺した品々は、人民公社の革命委員や幹部の目から隠さねばならないものだったのである。

 

政治の恐ろしさ

 ソンデーおじさんを死に追いやった政治学習とは、具体的には、月に1度アイルの人々が集まって毛沢東語録(モンゴル語訳版)を学び、政治的な身分が悪い人々に“自己批判”を迫る集会であった。ソンデーおじさんは祖父とともに信仰心を捨てる告白を迫られ、毛沢東思想を学んだ成果を幹部に報告させられていた。ソンデーおじさんはそれに耐えられず自ら命を絶ち、それからは祖父一人がその責を負わされた。

 祖父母とともに、私自身がその場に立たされたこともある。“反革命分子”、つまり最低の政治的身分に分類されていたからである。私たちは生きる権利を獲得するために思想を、人生そのものを徹底的に変革せねばならない、そういった立場に置かれていた。トゥグルグ・アイルの住人たちの前で「私は悪人です。どうしようもない、生きる価値もない人間です。みなさまのご指導を受け、よい人間になるために努力を惜しみません」と告白し、人民公社からやってきた幹部から許しが出るまで頭を下げ続ける。それでも、幹部の虫の居所が悪ければ反省態度が悪いと罵られ、殴る蹴るの暴行を受ける。私たちを助けることもできず、ただこちらを見つめ続けるアイルの人たちの悲しく無気力な目は、いまでも脳裏に焼き付いて離れない。

 誰しもにとって苦しみしか生まないこの集会が何のために行われるのか、幼い私にそれが分かるわけはなかった。しかし、そこで大人たちが手にしていた紙の束が「本」と呼ばれるものであること、羊飼いの青年とラクダおじさんの長男の2人は「文字」を知っているので、そこに書かれていることを皆に読み聞かせる役割を担っているのだということは分かっていた。そこで朗読されていたのは毛沢東語録だったのだが、当時の私はその難解な言葉が理解できず、ろくに聞こうともしなかった。大人たちの目を盗んで遊び、疲れて寝てしまえば祖父の背に負われて帰路に着くだけだった。私の人生における本との出会いは、決して幸せなものではなかったといえる。

 自己批判をさせられた後の祖母は機嫌が悪くなるのが常で、祖父や私に怒りをぶつけた。だから私はこの集会が大嫌いで、早くなくなればいいといつも念じていた。その願いが叶ったのかどうか、1972年以降は私たちが自己批判の席に立たされることもなくなり、さらに数年後には集会そのものが下火となっていった。ようやくトゥグルグ・アイルに静かな遊牧生活が戻ってきたのである。

 幼かったこの頃の記憶はおぼろげになってしまっている。正直なところ、今回ご紹介した内容もどこまでが私自身の記憶で、どこからが後になって知ったことなのかはっきりとはしない。混乱の時代に巻き込まれて育ったとはいえ、辛かった記憶ばかりが残っているわけでもない。しかし、“反革命分子”として生きねばならなかった草原の思い出には、やはりどこか悔しさや虚しさの影がつきまとっている。同年代の友人たちが寄宿舎制の小学校へと向かう姿を見送り、自分だけが草原に残らねばならないのはなぜかと問う時の寂しさは、どうしても忘れることができないのである。

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「コンシャンダック沙漠とわたし」筆者作成

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*1:1966年から1976年にかけて、中国共産党および中国政府は、内モンゴル自治区、新疆ウイグル自治区、青海省、甘粛省、遼寧省、吉林省、黒龍江省や北京市のモンゴル人(特に幹部や知識人)に“分裂主義者”、“反革命分子”などと呼び、さまざまな罪を着せた。70~90万人が投獄され、うち5万~数十万人が殺害されたとされる。内モンゴルにおける内人党事件の詳細については、次の本をご参照いただきたい。楊海英『墓標なき草原 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 上・下』岩波書店、2009年。

*2:イヒノール寺院では、最盛時には300人近くのラマが修行していたとされる。内モンゴルの四大寺院のひとつである貝子廟や青海省内の寺院とも交流があり、数多くの若いラマが修行に励んでいたという。文化大革命が始まるとラマたちは寺院から追放され、寺院そのものも破壊された。詳細は『正镶白旗地方志』(内モンゴル自治区文化出版社、1990年)が参考になる。

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