第17回 受験勉強③「歩むべき道」

 

マルクス、エンゲルスとの再会

 母が語るところによると、亡き父は大変な読書家だった。家にあった古い本棚も、かつては古今東西の本で埋め尽くされていたのだという。しかし、文化大革命の時代に反革命運動に関与したとみなされたため(連載第2回参照)、そのほとんどは無残にも奪われてしまい、残されたのはマルクス、エンゲルス、レーニン、そして毛沢東の著作だけだった。あるとき私はこの本棚を使わせてもらおうと思い、埃をかぶった図書を段ボールに詰めようとした。そのとき、ふと聞き覚えのあるタイトルの本が目に留まった。カール・マルクスの『共産党宣言』だった。どうせ政治の教科書に並んでいるような宣伝文句が並んでいるだろう。そう高をくくっていたのだが、意外なことに修辞的な美しさと論理的な説得力を兼ね備えた作品で、思わず引き込まれてしまった。

妖怪がヨーロッパに出没する。共産主義という妖怪が。ヨーロッパの老大国はこぞってこの妖怪を退治すべく「神聖な」同盟を結んだ。教皇とツァーリ、メッテルニヒとギゾー、フランス急進派とドイツ警察。

 『共産党宣言』はこのような文学的な冒頭ではじまり、今日に至るまでのあらゆる歴史は階級闘争によって編まれてきたという主張を貫いていた。私が学んできた政治や歴史の教科書はこの歴史観に範をとったものだったのだろうが、そこにマルクス自身が残した言葉の魅力と卓越した論理構成はまるで見いだせなかった。マルクスという人物への印象はがらりと一変し、他の作品を探してみると、『資本論』と『ドイツ・イデオロギー』が蔵書のなかにあった。残念なことに当時の私の知識と読解力では歯が立たず、いずれも最初の1章だけで諦めてしまったのだが、マルクスとともに社会主義の礎を築いた盟友フリードリヒ・エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』は読みやすく、なんとか最後まで読み通すことができた*1。一夫一婦の婚姻、賃金労働、そして国家など近代社会を構成するさまざまな制度がある歴史的条件のもとで生み出されたものであり、いずれはかたちを変えていくものだという主張がなされていた。

 

古典に学ぶ

 思わぬところで訪れた古典との出会いは、受験勉強のなかで鬱積していたマルクスやエンゲルスへの嫌悪感に近い感情を払拭してくれただけでなく、草原を離れてからの私が追い求めてきた“文明”というものの手ざわりを感じさせてくれた。歴史や哲学に関する思想への興味が沸き、図書館や本屋でも意識して探すようになった。社会主義に関する著作だけでなく幅広い古典作品を読んだが、人間の平等を高らかに謳うルソーの思想にはとくに強く惹かれた。『社会契約論』や『人間不平等起源論』は、政治的な“身分”の悪さと遊牧民出身というレッテルを背負って生きてきた私にとって、そうした不平等がいかにしてつくられたのか、そして理想の社会を実現するためにどうすればよいのかを深く考えるきっかけを与えてくれたからである。自伝的作品の『告白』で自らの罪業を吐露する勇気、自らの意思に従って生きよと語る信念にも心を揺り動かされ、希望を胸に抱いて生きることの大切さを教えられたのだった。

 先輩のボルドーさん(連載第16回参照)が贈ってくれたフランシス・ベーコンの『ベーコン随筆集』も、とてもためになる1冊だった。身だしなみやマナー、お金の使い方、教育など身近な話題から善悪や懐疑などの哲学的命題まで、58の項目ごとに読者を納得させる鋭い考察がなされていた。「読書で充実した人間がつくられ、会話で当意即妙な人間がつくられ、もの(文章)を書くことで正確な人間がつくられる」という一節はとくに印象に残っている。母によると、私はときおり「なるほど!」と相槌を打ちながらこの本を読んでいたそうだ。

 その後、ベーコンの他の作品も読もうと図書館で本を借りてきたはいいものの、家に帰っていざ開いてみるとアイザック・ニュートンの著作だったということもあった。どうやら、縮れ毛のカツラをかぶった著者の絵がそっくりだったので間違えてしまったらしい。『自然哲学の数学的諸原理』という本で、これも何かの縁だと思って開いてみると天体の運動や宇宙の成り立ちが論理的に整然と描かれており、そのまま没頭してしまうほど惹き込まれてしまった。テンゲル(天)とはモンゴル人にとって祀るべき存在であり、その構造を考えたことなどなかった。人間が発見した数式と論理によって宇宙を説明しようという発想そのものが、恐ろしさと好奇心の双方を掻き立てるような不思議な魅力を湛えているようだった。「神は存在する。宇宙が動き出したのは、神の命令(一撃)に他ならない」というこの本の末尾を締めくくる一言も、科学と信仰の関係をあらためて考えさせるきっかけとなった。「宗教は人民の阿片である」と繰り返し唱えさせられ、“迷信”を捨て去ることこそが進歩だと教え込まれてきた私にとって、科学者であるはずのニュートンがなぜ神について語るのかが疑問だった。宗教と科学は矛盾するものではなかったのか。ニュートンの著作は、私に新たな問いをもたらしたのだった。

 

 まだ見ぬ世界への茫洋とした憧れから進学を目指し始めた私は、大学で何を学ぶべきかなど深く考えてはいなかった。しかし、知性と理念の力で社会を理想に近づけようとするルソーやベーコンの著作に触れたことで、ようやく文化大革命を終えた中国が向かう先を間近で感じたいと思うようになり、法学部を受験することにしたのだった(連載第16回参照)。また西洋の古典作品に通底する経験主義への共感も、実践にかかわれる分野に進学しようという選択を促してくれた。実験を積み重ねて万有引力の法則を実証していったニュートンはもとより、マルクスもまた抽象的な議論を振りかざすだけでなく、資本や労働をめぐる緻密な分析と論理展開にもとづいて理論を打ち立てていた。常に現実と経験にもとづいて思考する彼らの著作には、それまで傾倒していた小説や文芸作品とは別の強靭な深みがあった。このときには気づいていなかったが、それが学問への関心の芽生えだったのかもしれない。

 

▼次回更新は、11/15(木)の予定です。

▼これまでの記事はこちら

*1:当時の私は知る由もなかったが、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』は、19世紀のアメリカで活躍した文化人類学者であるルイス・ヘンリー・モーガンが提唱した人類社会の発展段階論から強い影響を受けて書かれたとされる。

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.