第41回 「論文を書くこと、自分と闘うこと①」

 大学院に進学してからは、休暇のたびに内モンゴル自治区ホロンバイル盟に通っては、中国語とモンゴル語で書かれたものを中心にさまざまな現地資料の収集を進めていった。エヴェンキ人やオロチョン人の民族誌や歴史文献、統計資料、そして調査中に書き溜めたフィールドノートは本棚の一角を占めるほどになったが、どんどん増えていくそれらの資料を使って何を書いたらよいのか、修士論文の方針は一向に見えてこなかった。修士課程2年目の夏が過ぎ、いよいよ修士論文の提出が数か月後に迫った時期になっても、テーマはおろか方法論も定まらないまま、焦りだけが募っていた。

 

何を書きたいのか、何を書くべきか

 修士論文ともなれば、単に新しい事実を報告するだけでなく、先行する研究を整理したうえで、独自の知見を加えなければならない。日本の大学院で要求されるレベルの高さ、そして限られた時間のなかでそこまで到達するのが大変だろうことは理解していたので、入学当初から私なりに準備を進めてはいた。まず修士課程の1年目は、あまり研究がなされてこなかったエヴェンキ人のトナカイ放牧についての調査をもとに、今西錦司の遊牧論や梅棹忠夫のモンゴル研究を再検討する論文を書こうと考えていた。ところが、いざ執筆準備にとりかかってみると想定していた以上に遊牧に関する研究が膨大にあり、全貌を把握しきることはできそうにないという問題にぶつかってしまった。また、私が行った調査は通算しても3か月程度と短期間で行ったものであり、エヴェンキ語ではなく中国語を調査言語としていたという弱みもあるため、既往の研究を見直すための論拠とするにはあまりにもデータが薄弱だった。

 次に考えたアイデアは、エヴェンキ人の若者の現状を記述するというものだった。オルグヤ村で寝食をともにしたウェジャやコウサンたちとは、ときに喧嘩もしながら深くかかわることができたという実感があったからだ。街の生活に憧れつつも適応できず、酒を飲んではアイデンティティの葛藤を忘れようとする彼らの気持ちは、ずっと私が抱き続けてきた不安ともどこかで重なっていた。しかし、マイノリティとして生きる若者たちに焦点を当てた民族誌を書くことには意義があると思ったのだが、やはり短い調査のなかで偶然に出会うことができた数人の語りだけに依拠して論文を書くことはできそうになかった。

 文化人類学教室の先生や研究仲間にも相談にのってもらいながら、1年以上もあれこれと悩み続けた末にたどり着いたテーマは、トナカイ放牧を営むエヴェンキ人の社会的、経済的な変容を、マイノリティの立場に置かれた人々にとっての近代化の経験として描くというものだった。エヴェンキ人は歴史的にロシアと中国の勢力圏のはざまに暮らし、20世紀前半には日本からの影響を強く受け、さらにその後は社会主義体制のなかに組み込まれていった。彼らの近代化は主体的なものではあり得なかったはずだが、そのプロセスを描いた研究はほとんど行われてこなかった。なお手には余る課題ではあったが、先生方の勧めもあって修士論文ではこのテーマに取り組むことにしたのだった。

 

思考を文章化する難しさ

 17世紀半ば、トナカイ放牧をするエヴェンキ人はレナ川上流域でロシア人の支配下に置かれていた。18世紀末から19世紀初頭になると彼らはアムール川を渡り、大興安嶺で暮らすようになった。ロシア人の影響を受けたといっても、この頃まではまだ狩猟とトナカイの飼育によって生計を立て、氏族組織とシャーマニズムをもとに社会的な秩序を成り立たせていた。ところが、短期間だったが日本軍の統治を経たのち、1950年代から社会主義体制に組み込まれると、それまで維持してきた生業や信仰は根本的な変化を余儀なくされていく。学校教育や民族の境界を越える通婚などが徐々に浸透していき、もはやトナカイ放牧を営んで暮らす人々と一括りにできないような状況になっていったのである。私はこのようなストーリーを立て、文献資料と聞き取り調査のデータにもとづいて論文をまとめることにした。

 予想していたことではあったが、執筆は難航した。はじめは日本語の読み書きに慣れていないせいで執筆が捗らないのだと考えていたが、しばらくすると論文を書くための訓練がそもそも足りていないのだということが分かってきた。調べたことをあれもこれも書こうとすれば論旨があいまいになってしまうし、かといって抽象的な言葉で主張だけを書いてしまえば、小さな子供に大きな帽子をかぶせるように不格好で滑稽な論文になってしまう。書いては消し、消しては書いてを繰り返しているうちに時間だけはどんどん過ぎていき、焦りと不安だけが募っていた。

 秋も終わりに近づいていたある日、睡眠不足をおして机にかじりついていたがまったく筆が進まず、思い切って気分転換しようとうつのみや書店へと足を運ぶことにした。文庫本コーナーで松本清張の『点と線』という小説が目に留まり、しばらく立ち読みしてみると、冒頭からぐいぐい引きこまれる面白さだった。結局、上下2冊を買って帰宅し、不安を紛らわせるかのように夜更けまで夢中になって読み耽ってしまった。おかげでふさいでいた心もいくらか晴れ、次の日からはまた論文との格闘を再開したのだが、数日後にふと机の隅に放っていたこの本の表紙が目に入った瞬間、大書されたタイトルにはっとするインスピレーションを感じた。点と線・・・。そうか、まずは書けるところからピンポイントで書き始め、書いたものを時系列に沿ってまとめればいいのかもしれない。そう直感したのだった。

 修士論文の提出まで残り2か月しかなかったが、とにかく手をつけやすいところから書いていき、書き溜めたものを週に1度のペースで鹿野先生に見ていただき、指導を受けながらまとめていくことにした。すると、遅々として筆が進まなかったのがウソのように、順調なペースで書き進めることができるようになった。それからおよそ1か月半の間に、あらかた修士論文が書きあがってしまったのである。

 もちろん完全に納得がいく出来栄えではなかったが、孤独とたたかいながらごく短期間で論文を書ききった経験は、私にとって研究者としての一里塚になったのだった。

 

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