第5回 文盲に生きた時代④「草原との別れ、祖父母との別れ」

ウマのフフシンヘール

 文化大革命がなお続いていた当時、放牧などの生産活動に必要な主だった道具や家畜は、人民公社ないし生産隊ごとに共同で管理されていた。私が暮らしていた地域でも、ウマの管理は政治的な“身分”のよい人のなかから選ばれた管理職員が担っており、そのほかの遊牧民たちはその職員に申請して、一年ごとに放牧に必要なウマを借り受けていた。毎年異なるウマを借りてもよかったが、祖父は同じウマと長く付き合うのを好んだ。“反革命分子”だった私たちにはあまり出来のよくないウマが割り当てられることが多かったが、不思議なことに、そうしたウマでも何年か祖父が面倒を見るうち、駿馬とまではいえないまでも評判のウマへと成長していくのだった。たとえば、私が4、5歳の頃にいた赤毛のウマと薄茶色のウマも、1頭は暴れたり噛みついたりと気性が荒く、もう1頭は腰が固いため乗る人を疲れさせてしまうウマだった。ところが、3年、4年と祖父が世話をするうちに言うことをよく聞くようになり、他の遊牧民たちから交換を申し込まれるほどのよいウマに育っていた*1

 私が8歳くらいまで飼っていたフフシンヘールという名のウマとは、数えきれないほどの思い出がある。フフシンは年長、ヘールは赤毛という意味で、私が物心ついた頃にはすでに30歳を過ぎた年寄りウマだったが、乗馬を覚えたのもフフシンヘールの背中だったし、一人で放牧に出るようになってからも、いつもフフシンヘールと一緒だった。5歳くらいの頃だったか、放牧していた家畜を見失ってしまい、探し回るうち夜が更けてしまった。フフシンヘールは聡いウマで、私が帰り道を見失ったときも、ハミを緩めれば我が家まで連れて帰ってくれる。その安心感もあったのか、その晩はフフシンヘールに乗りながら眠りこけ、背中からずり落ちてしまった。小さかった私は踏み台なしに登りなおすことができず、ウシの群れを追いながらフフシンヘールの横を歩いていたが、トゥグルグ・アイルが近づくと仔畜に乳を与えようとウシたちは駆けていってしまい、フフシンヘールと私だけがとり残されてしまった。そのとき、月明りに照らされた夜の草原にオオカミの鳴き声が響き渡った。私は足がすくんで歩けなくなってしまった。とっさにフフシンヘールの前脚の間にもぐりこむと、すこしだけ心が休まる気がした。フフシンヘールに守られ、幼かった私は泣きながら祖父が探しに来てくれるのを待つほかなかった。

 フフシンヘールは37歳まで生きた。私が心細くても泣かないくらいの年頃になると、祖父は「彼は年寄りだから自由にさせてあげよう」と言い、放牧や荷運びに使うこともなく放し飼いにしてのんびり過ごさせてやるようになった。フフシンヘールは、となりのハルモッド生産隊の草原まで自由に遊びに行って、そこで亡くなった。祖父と私で駆け付けると、口に草をくわえたまま横たわる姿があった。「彼は幸せだよ。食べながら死んだというのは自然に亡くなったということだから」と祖父は言った。私たちは、フフシンヘールを近くの丘に埋葬することにした*2

 

旅立ちの日

 11歳のある日、遊牧民としての私を育ててくれた草原と祖父母に別れを告げるときが来た。まだ月の光が残る早朝、祖父は黒いウマに乗り、私はウールンボルという名の愛馬*3にまたがってトゥグルグ・アイルを後にした。ウールンボルの背には、私が10歳のときに「一人前の大人の証」として祖父から贈られた、銀飾りが施された手作りの馬具が据えられていた。都会行きのバスが通るところまで40㎞ほどの道のりを、祖父と私はウマの背に揺られて黙々と進んだ。バスの通過地点が見える砂丘まで来ると、私たちは荷を下ろして肉とチーズをかじりながら、普段と変わりなくたあいのない話をした。

 午後2時ごろ、遠くに砂ぼこりが舞い上がり、バスが近づいてくるのが見えた。唐突に、祖父が私の目をのぞき込んだ。「ここはお前が生きる場所ではない。お母さんの話をよく聞いて、街で生きなさい。お前は身体が頑丈なのはよいけれど、頭はよくない。私には街の生活のことはよくわからないが、街では読み書きができないと仕事ができないというから、しっかり勉強するんだよ」。祖父はこう私に言いつけてから、最後にこの地方のことわざを付け加えた――「百頭のウシよりも、ひとりの友達を選びなさい」。

 富よりも人を大切に生きてほしい、物欲に溺れず、人の役に立つ生き方をしてほしい、そういった願いが込められた言葉なのだろうと、いまの私はそう思っている。祖父はラマ(チベット仏教の僧侶)になる道を国によって閉ざされ、外からやってきた人々が身勝手な言い分で暴力をふるったり、動物や植物を根こそぎ持って行ってしまうような情景を目にしてきたにもかかわらず、恨みごとを口にしたことはなかった。傍若無人なことをする人がいたとしても、不思議そうな目で見つめ、ため息をひとつ漏らすだけで何も言わなかった。その一方で、沙漠に生える柳を使って見事な籠や熊手をつくり、野生のニラやラッキョウを集めて漬物をつくっては、欲しいという人に惜しげもなく与えていた。自らの欲をコントロールし、他人に与えることに喜びを見出す。それは究極的な哲学的命題に直結していることだと、いまになってそう思う。遊牧から離れてからずっと“文明”を追い続けてきた私だが、その結果、祖父の背中に近づけたとは到底思えない。「百頭のウシよりも、ひとりの友達を選びなさい」。かつて“文盲”の世界に生まれたこの言葉の重みは、“文明”を生きる現代の私たちにも等しく感じられるのではないだろうか。

 

 私がバスに乗り込むと、祖父はすぐに踵を返して帰路についた。祖父と、大好きだったウールンボルの背中が遠ざかっていく。砂丘の陰にその姿が見えなくなるまで、祖父は一度も振り返らなかった。それは、私が最後に見た祖父の姿であり、遊牧民として暮らしたコンシャンダック沙漠の風景だった*4

 

f:id:koubundou:20180801125222j:plain

私の祖父*5
筆者作成

 

▼過去記事はこちらです

 

*1:コンシャンダック沙漠には、「ウマの性格は乗る人の性格である」ということわざもある。

*2:ふつうウマは埋葬しない。フフシンヘールはとても長生きしたウマだったため、特別に埋葬することにした。

*3:年寄りのフフシンヘールに乗らなくなってから、祖父が私の乗用にと用意してくれた灰色の牡馬。「灰色の雲」という意味のウールンボルと名付けた。9歳の時に私はウールンボルとナーダム(競馬祭)に出場し、40人中7位に入賞した。賞品はお盆とタオル、石鹸だった。

*4:コンシャンダック沙漠には、あれから一度も戻っていない。それが祖父との約束を守ることだと思うからである。その後、祖父は自らの希望で天葬(牛車で遺体を人気のない草原まで運んで安置し、ハゲタカやオオカミなどに食べさせて自然に還す葬法)に付されたとも、チベット仏教の聖地であるラサへの巡礼の途上で消息を絶ったとも聞いている。しかし、祖父が生きた証が私の人生に刻まれている、それだけは確かなことである。

*5:祖父がモドウブルジョー(木が多い冬営地)で馬を捕まえる道具(オラグ)を作る木を選んでいる様子を描いた。柳、白樺、松など道具作りの素材を手に入れるため、私たちの夏営地から西北20kmほどに位置するハルモッド生産隊を訪れたときの一場面である。

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.