第6回 本との出会い①「街での暮らし」

束の間の母との暮らし

 子ども時代を過ごした草原を後にした私は、シリンホトの街に住む母のもとで暮らしはじめた。本連載第2回で詳しく書いたように、私は乳飲み子の頃に政治的混乱に巻き込まれることを避けるため草原へと送られ、そのときから母とは離ればなれになったままだった。1970年代の後半に入る頃にはようやく国内情勢も少しずつ落ち着きを取り戻し始め、年に1度か2度は母が会いに来てくれていたが、ついに母と一緒に暮らせるようになったことが嬉しく、慣れない街での生活も苦にはならなかった。

 母が四方八方手を尽くしてくれたおかげで、他の子どもたちより一足遅れてしまってはいたが、私も学校にも通えることになった。とはいえ、シリンホト第一小学校の4年生に編入させてもらったのはよかったが、授業の内容はほとんどチンプンカンプンだったし、そもそも学校という環境になじむことができなかった。狭い部屋に何十人もの子どもがぎゅうぎゅうづめに押し込まれ、お喋りすることも、身動きすることすら許されない。コンシャンダック沙漠での暮らしのなかで一番の苦痛だった“政治学習”を思い起こさせるような教室という空間が、どうにも嫌で仕方なかった。母を悩ませるということが分かってはいたが、次第に学校から足が遠ざかるようになり、登校時間に家を出ては外で遊びまわって帰るような日が続いた。

 そんなある日、内モンゴル自治区の中心都市フフホトにある内モンゴル自治区芸術専門学校(以下、芸術学校と略記する)の教員が、才能のある子どもを見つけるためシリンホトにやってきた。小学校での教育から落ちこぼれてしまった私を見かねていた母は、音楽や舞踊などであれば興味を示すのではないかと考えたようだった。芸術学校から派遣されてきた教員のなかにいた古い知り合いの伝手をたどって、息子を入学させてほしいと頼みに行ったのだ。読み書きができないと知って教員たちは難色を示したそうだが、文化大革命で学ぶ機会を失った子どもの境遇への同情もあったのだろうか、母の想いが伝わって芸術学校への入学が許された。私自身はといえば、芸術と言われても何のことかよくわかってはいなかったが、机に縛りつけられる小学校の授業から解放されるのだと考えると、内心は少し嬉しい気持ちもあった。とはいえ、やはり再び母のもとを離れて一人で暮らさなければならないという心細さの方がよほど大きかった。それでも、母が何度も頭を下げに行ってくれたのを知っていた私は、子どもじみた駄々をこねてはいけないのだと自分に言い聞かせるほかなかった。

 

芸術学校

 フフホトの芸術学校での生活は、11歳の秋に始まった。私は舞踊班に割り振られ、モンゴルの伝統的な舞踏のほか、クラシックバレエやミュージカルなどを学ぶことになった。とても残念なことに、このほか中国語、政治、歴史だけは必修科目として課され、はるばるフフホトまで逃げて来ても結局は座学から逃れることはできなかった。授業は男女別で行われたが、12人いた男子のうち私が最年少だったこともあり、同級生の仲間たちは何につけ世話を焼いてくれた。授業ごとの宿題ですら自分一人ではお手上げで、友達の助けを借りてどうにか学校生活についていく日々が続いた。

 芸術学校では同級生たちと相部屋での寮生活を送った。電話はよほどのことがないと使わせてもらえなかったため、家族との連絡はもっぱら手紙に頼るほかなかったが、これが私にとっては悩みの種だった。母から届いた手紙の封を開くときはワクワクするのだが、書いてあることが読めずにがっかりさせられるからだ。街で暮らし始めてからは、私なりに文字を覚える努力をするように心がけてはいた。しかし、一つ一つの文字は何となく分かっても、全体の意味を捉えることはできなかった。仕方なくここでもやはり友達を頼り、届いた手紙を読み聞かせてもらい、私が話す言葉を便箋に書き留めてもらって返事を出していた。手紙が届く度に面倒をかけるのは気が引けると思っていたところ、あるとき同級生の一人が「アイスクリームを買ってくれたら手伝ってあげる」と言い出した。それがきっかけになり、手紙の代読は4分で買えるアイスキャンディー*1、代筆は1角*2のミルク入りアイスクリームをお礼にあげるという決まりごとができた。少ない仕送りをやりくりするなかでは手痛い出費だったが、少しでもお返しができるチャンスができて気持ちは楽になった。

 踊りの練習は楽しく、入学から1年ほど経つ頃にはクラスでも上位の成績をとれるようになっていた。ところが座学はどう頑張っても同級生たちについていくことができず、育ちのハンディキャップを恨めしく思うこともあった。中国語の聞き取りと会話は不自由なく学校生活を送れる程度まで上達したが、やはり読み書きは一朝一夕には身につかなかった。その頃、同級生たちは将来の出世を見据えて中国共産党の下部組織である“共青団*3”にぞくぞくと入団していたが、私は申込書が書けなかったために置き去りにされていた。そんな状況を情けなく思った私は、辞書や新聞などをかき集めてきて格闘した末に、「誠心誠意、入団を希望します。よろしく願います」という文章を中国語で書き上げた。しかし、申請書には入団を希望する理由を併せて書かねばならず、そちらは完全にお手上げだった。結局は、友達がこっそり仕上げてくれたおかげで、私もどうにか入団を認められたのだった。

 

文盲であるという自覚

 この頃の中国では、毛沢東の死と四人組の失脚によってようやく文化大革命が終わりを告げ、大きな歴史の転換期を迎えていた。長いあいだ禁じられていた自由な発想や娯楽が公の場に舞い戻り、芸術学校の若者たちもこぞって新しい知識と刺激を求めた。図書閲覧室はいつも人で溢れかえり、校内広場のスクリーンで上映される映画は喝采の拍手で歓迎された。「これからは踊りだけやっていてはダメだ。科学を学び、文化を身につけなければならないよ」。そう言って、私を閲覧室や映画に誘ってくれる友達もいた*4。私自身にも、世の中に渦巻く熱気に惹かれ、仲間と一緒に来るべき時代への希望を語り合いたいという気持ちは確かにあった。しかし実際には、本を手にとっても読むことはできなかったし、映画を見に行っても、周りの人たちが笑ったりため息をついたりしながらスクリーンに魅入っているのを横目に見ながら、自分だけが話の筋に追いつけないまま劣等感に苛まれるだけだった。

 街での暮らしが長くなるにつれて、いつしか私は文盲であることに負い目を感じるようになっていた。単純に読み書きができず不便だというだけでなく、道路の渡り方や買い物のコツなど街の人々にとっての常識に疎かったために、奇異の目で見られたり騙されたりと悔しい思いをすることが多々あった。初めて会う人の感情がうまく読みとれず、疑心暗鬼に陥ってしまうこともあった。祖父が柳を使ってさまざまな道具を作るのと同じように、街での暮らしは文字を素材にしてできた決まり事が組み合わさってできているような気がしていた。だから、読み書きのできない人間はずっと蚊帳の外に立たされたままなのだ。私も芸術学校に在籍してはいたが、踊りや音楽はまだしも文学や詩歌の奥行きを知るすべはなく、いつまで経っても素人のままだった。中国の人々が悠久の時間のなかで培ってきた歴史や社会のしくみ、思想、道徳といった諸々のことについての経験と理解が欠けていることが、重い足枷のように私の自由を奪うのだった。

 新しい時代の幕開けを肌で感じながら、これからの世の中を生き抜いていくためには文盲のままに甘んじていてはいけないと思うようになっていた。

 

*1:アイスキャンディーは、保冷のために布団で巻いたブリキの箱に商品を詰めて売り歩くおばあちゃんから買っていた。節回しの効いたなまりの強い中国語の売り声が懐かしい。

*2:“角”および“分”は、中国の通貨である人民元の補助単位。1角は1元の10分の1、1分は1角の10分の1。

*3:“共青団”は、共産党のエリート幹部となる若者を養成する組織である中国共産主義青年団の略称。

*4:ある友達がアイスキャンディーなしで読み聞かせをしてあげると言って、“生活科学”に関する雑誌のなかから歯磨きの仕方を選んで説明してくれたことがあった。私は実のところ退屈で仕方がなかったが、本や新聞を熱心に読む人で溢れた閲覧室の雰囲気には圧倒され、私も早く追いつかなくてはならないという気持ちにさせられた。ちなみに、歯磨きの習慣はその後もなかなか身につかず、最近になってようやく毎日歯を磨くようになった。

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