第8回 本との出会い③「読み書きを教えてくれた人」

▼前回の記事はこちらです

 

卒業制作

 スタンダールの『赤と黒』と、張揚の『二回目の握手』。友人たちの朗読を通じて出会った小説はいずれも私を魅了し、世の中について考えるきっかけをくれた。ところが、週に1度の読書会を楽しみにどうにかやり過ごしてはいたものの、芸術学校では最終年度となる3年生になる頃にはじまった身体の不調は長引くばかりだった。舞踏のレッスンでも思うように身体がついていかず、それまで良い成績をもらっていた実技の授業にもついていけなくなってしまった。年の瀬が迫る頃、このままでは卒業も危ういという焦りのなかで悩んだ結果、母の住むシリンホトに戻ってしっかりと療養することに決めた。そこで家族と一緒にのんびり過ごし、再び芸術学校に復帰したのは翌1979年3月だった。

 いよいよ卒業前の最後の学期となり、同級生たちはみな卒業制作の準備にとりかかっていた。舞踏班の私たちは、ソロあるいは数人のグループを組み、モンゴルの生活や文化を題材とした20分程度の作品をつくって自ら演じなくてはならなかった。私はブランクがあるためソロに挑戦するのは難しいと判断し、モンゴル族の友人を誘って3人で踊ることにした。「ウマの調教(“馴馬”)」というタイトルの作品で、モンゴルの若者が気性の荒い3歳馬を見事なウマへと育てていく過程を表現した内容だった。ウマの調教は遊牧民の子どもが最も憧れる仕事だったが、私は11歳で草原を離れたために経験できなかった。叶うことのなかった憧れを、踊りに託して表現したかったのである。卒業制作の完成度は、卒業の可否だけでなく、就職にも直接かかわってくる。学年末の発表会には各地の芸術学校や団体から採用担当者が派遣されて来ており、よい踊り手にはその場で声がかかるからである*1。そのため同級生たちの準備にかける取り組みは真剣そのもので、療養生活で後れをとっていた私は、人一倍頑張らねばならないと練習に打ち込んだ。

 同じグループの3人で1か月ほど準備に励み、ようやく作品の半分ほどが仕上がってきた。ある日のこと、少し疲れがたまっている気がしたので、私はいつもより入念にウォーミングアップをしていた。突然激しい咳が止まらなくなったかと思うと、口を押えていた手に生暖かさを感じた。手のひらが紅く染まっていた。すぐに同級生たちの助けを借りて病院に運ばれ、検査の結果「結核」と言い渡された。その病名を知らなかった私は、卒業制作の発表会の舞台には立てるのだろうかということばかりが気がかりだったが、巷では結核は死の病とされていたそうで、同級生たちにはずいぶん心配をかけてしまった。

 

病室での出会い

 医者からは伝染の恐れがあるため人との接触を避けるよう言われたが、すぐに入院できる病院を見つけることができなかったため、当面は学校の宿舎の一室を独占させてもらうことになった。部屋に閉じこもって床に臥せる退屈な日が1週間ほど続いたが、事情を知った母が奔走してくれたらしく、亡き父の友人の伝手を頼ってフフホトの陸軍病院に入院させてもらえることになった。病室は4人部屋で、同室の人たちはみな結核を患っていた。私は一番奥手で窓際のベッドを割り当てられ、お隣さんは張永貴さんという中年の男性だった。

 張さんには20歳前後の娘さんがおり、毎朝手料理と新聞*2を差し入れに来ていた。ある日、張さんは朝食のお粥をこぼしてしまい、娘さんがシーツを替えようとめくったところで、隠し持っていたたばこが見つかってしまった。娘さんにたばこを没収され、張さんはすっかり元気を失ってしまったようだった。その姿を見ていられず、私は“前門”という張さんが好んで吸っていた銘柄のたばこを買ってきてプレゼントした。この出来事があってから、張さんと私はいろいろと話をする仲になった。張さんは読書家で、毎日朝食後に娘さんが差し入れてくれる新聞を1時間以上かけて読み、そのあと昼寝をはさんでからもさらに本を読んでいた。たばこの一件があってから、張さんは読み終わった新聞を私に手渡してくれるようになった。娘さんが差し入れてくれていたのは「人民日報」と「参考消息*3」の2紙だったが、張さんは中国共産党の機関紙である人民日報の方をしっかり読むよう勧めてくれた。文盲だと思われるのが恥ずかしく、私は知っている漢字を探しながら読むふりをするほかなかった。

 しばらく経ったある日、張さんは学生であるはずの私が1度も教科書を開かず、本も読まないことに気づき、なぜ勉強しないのかと尋ねてきた。答えに躊躇しているうちに事情を察したようで、「さては、漢字を読めないんだね。君は確かモンゴル族だったな。モンゴル語は読めるのか?」と続けて聞いてきた。私はもう言い逃れできないと観念し、両方とも読めないと答えた。すると、張さんはしばらく考えごとをするように黙りこんだあと、それなら私が漢字を教えてあげようと言ってくれた。

 その日から、私は張さんを先生と呼ぶようになった。なんと驚いたことに、張さんはフフホト市内の中学校で国語を教える本物の先生だった。まずは人民日報の紙面を教材に、記事の見出しを張さんが読み、その意味を説明してくれた。私はそれを暗記し、使われている漢字を覚えていく。この方法で勉強を続け、1週間ほどすると簡単な見出しであれば大体の意味がつかめるようになってきた。ある朝、お父さんに頼まれたからと言って、娘さんが漢字字典*4と小学生用の漢字練習帳4冊を持ってきてくれた。私が代金を渡そうとすると、「君は物覚えがよい子で、教えるのも楽しい。入院生活も退屈じゃなくなったから、ご褒美だよって。お父さんが言ってたわ」と笑って、受け取ってはくれなかった。それからはレッスンの後も漢字の書き取り練習などの自習を行うようになり、めきめきと力がついていっていることが実感できた。

 入院生活が始まってひと月が経とうとする頃、シリンホトから母が見舞いにやってきた。病で気が弱くなっていたのか、久しぶりに母の顔を見て、人の目があるのもはばからず思い切り甘えたくなってしまった。それを察したのか、母は友人の家に泊めてもらいながら1週間ほどフフホトに滞在してくれることになった。嬉しかったのはそれだけでなく、ヒツジ肉の塩漬けをひと抱えほども持ってきてくれたうえに、毎日ヒツジ肉の餡がたっぷり入ったボーズ(モンゴル風の肉まん)をつくって差し入れてくれた。張さんもヒツジ肉は大好物で、私たちは母が持ってきてくれるご馳走を山分けして食べたものだった。

 

“文明”への階段

 その間も私たちは毎日休まずレッスンを続け、新聞記事の見出しだけでなく内容の読解も行えるようになっていた。張さんが教材に選ぶ記事は政治的な内容のものがほとんどで、とくに改革開放路線への政策転換を決定づけた“第11届3中全会”と呼ばれる会議*5に関するものが多かった。保守派との闘争のなかで鄧小平をはじめとする改革派が理論的な支柱とした社説論文「実践は真実を量る唯一の基準である」*6も、何日もかけてじっくり解説してくれた。毛沢東の理論と事績に拘泥するよりも時代の変化にしたがった政治こそが正しいというその主張を、張さんは私にもわかるようやさしく教えてくれた。もちろん、そうした記事は抽象的かつ難解で、初学者の私が自力で「読む」ことができたわけではなかった。しかし、それまで肌で感じていた時代の移り変わりを表現する言葉があることを学び、おぼろげながら社会の仕組みを知ることができた収穫は大きかった。

 張さんが古新聞の束のなかから探し出してきて読ませてくれた「科学の春」(原題は“科学的春天”)という記事も、自分自身を見つめ直すきっかけを与えてくれた。文化大革命による中断を経て再開した全国科学大会のために、当時中国科学院長の席についていた日本でも著名な文学者、郭沫若が用意したスピーチ原稿をもとにした記事だった*7。「科学者は長らく不遇のうちに置かれ、中国の科学技術は世界から大きく遅れをとってしまった。しかし、科学は真理へと近づく道であり、人類の発展の基礎であり手段でもある。科学の否定は愚かなことであり、社会の進歩を阻害する。科学者は労働階級に属し、国の発展に貢献してきた。これからは科学者が活躍する道が開かれるべきである」。正確には覚えていないが、こうしたことが述べられていたと思う。「月への旅行、深海の探索など、かつて文学的な想像が担っていた世界も、科学の力によって現実のものとなった。科学者は小説家に負けない創造力を発揮し、いまこそ中国の科学技術を発展させねばならない」。そうしたことも、語りかけるようにわかりやすい文章で書かれていた。

 政治のみがすべてを支配する時代は過ぎ去り、科学が尊重される時代が来た。張さんと読んだ数々の記事は、変貌する中国の姿をはっきりと教えてくれた。「科学」という言葉に、豊かな未来を約束する希望を見た気がした。文字を学び、文盲から抜け出しはじめたそのときから、私は“文明”への階段を上りはじめていたのかもしれない。

 

*1:当時人気があった就職先には、「内蒙古自治区歌舞団」「内蒙古自治区直属属烏蘭牧騎」などがあった。卒業生の作品は、表現力、技術、オリジナリティを主な基準として評価され、優秀な生徒はよい就職先を選ぶことができた。

*2:娘さんは職場から持ち帰ったものを差し入れてくれていたようで、張さんが手にするのはいつも1日遅れの新聞だった。

*3:外国の新聞からの抜粋転載を中心とした日刊紙。当時、市井の人々が国際情勢を知ることができるほとんど唯一の情報源だった。

*4:『新華字典』というポケット版の字典だった。中国で最もポピュラーな字典だったにもかかわらず、文化大革命初期にはしばらく出版を禁じられたという。

*5:1976年10月に四人組が失脚したことで文化大革命は終焉したとされるが、その後もしばらくは保守派と改革派の権力闘争が続いていた。1978年12月に開催されたこの会議を経て改革派を代表する鄧小平が権力を握り、改革開放路線が明確に打ち出された。

*6:正否の判断基準は理念ではなく実践に立脚するという哲学的議論だが、毛沢東の後継者として文革路線の継承を図る華国鋒が掲げた「二つのすべて」(毛沢東の決定と指示に従うことを是とする方針)を批判する理論的根拠となった。1978年5月11日に「光明日報」に掲載され、翌日「人民日報」に転載された。

*7:実際には、郭沫若は病気のため大会には出席していない。そのかわりに、「科学の春」と題した閉会スピーチ原稿が寄稿された。

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.