第9回 本との出会い④「小説から学んだこと」

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不安と希望

 芸術学校の卒業を間近に控えるなか結核を患った私は、病室で隣り合わせた張さんから読み書きを教えてもらいながら入院生活を送った。当時は貴重だった輸入薬を処方してもらえたことで、病は順調に快方に向かっていた。張さんとはもっぱら新聞記事を読んでいたが、あるとき娘さんが私のために雑誌を持ってきてくれたことがあった。古今東西の有名な文学作品の抄訳を掲載した『読者文摘』、やはり名作映画を紹介する『大衆電影』の2誌だった。正直なところ政治記事ばかりの人民日報に少し飽きていたこともあって、娘さんの心遣いを有難くいただくことにした。まだまだ読解力が足りず、辞書を引いてもうまく意味がつかめないことも多かったが、自分の力で文芸作品に触れているという興奮も手伝って、連日何時間ものめりこむようになった。

 オー・ヘンリーの『最後の一葉』読み終えたときには、肺病を患って窓の外の蔦の葉を眺める主人公ジョンジーと自分の境遇を重ね合わせ、強い不安に襲われてしまった。その様子を見て心配してくれたのか、娘さんはヘレン・ケラーの“Three Days to See”を読み聞かせてくれた。赤ん坊の頃に視力と聴力を失ったヘレン・ケラーが、もし3日間だけ目が見えるようになったならば何を見たいかを語るエッセイだった。まずは自分に優しくしてくれた人の顔が見たい。それから、世の中の移り変わりをしっかりと見てみたい、そういった内容だったように記憶している。彼女はサリバン先生という素晴らしい師にめぐり合い、高い教養を身に着けた。盲目ではあっても、何を見るべきかはよく分かっていたのだ。私はといえば、目は見えていても文盲で、まだ世の中のことを何も知らない。ヘレン・ケラーのように立派な人間にはなれなくとも、このまま勉強を続けていけば新しい何かが見えてくるかもしれない。一時の病気くらいで落ち込んでいた自分が恥ずかしくなり、勇気を取り戻せた気がした。

 それまで読んできた新聞記事には、「正しい」立場から「正しくない」ものを批判し、排除しようとするものが多かった。そこから、文章を書いた人の顔は見えてこない。しかし海外の、とくにアメリカの文学からは、自分の想いや考えを自分の言葉で書いているということが伝わってきた。親しみやすい言葉で作者が直に語りかけてくるようで、新聞にあふれる闘争への呼びかけの文章などよりもよほど共感できる、そう感じた。

 

岐路

 6月に入り、私は薬の服用を続けながらも退院を許され、芸術学校に復帰した。卒業制作も佳境にさしかかり、同級生たちはみな練習に忙しくしていた。友人と3人で準備していた舞踏作品「ウマの調教」もストーリーづくりと振り付けは完了しており、表現や技巧などの細かい部分の詰め作業に入っていた。私は2か月以上も練習に参加できておらず、しかも退院後も治療を継続していたため、1日に2時間ほどしか踊ることができなかった。指導教員と一緒に踊る友人たちは私の身体を気遣い、私の出番は2分程度に収めてくれた。技も連続3回転半と空中2回転だけに絞り、激しい動きは避けて表現力で勝負する構成にまとめることになった。

 卒業制作発表会は、7月の暑い日に行われた。審査教員は3名だけだったが、各地の芸術団からたくさんの採用担当者が派遣されて来ていた。男女あわせて10組ほどが演じ、私たちは2位の成績で無事に発表を終えることができた。グループを組んで踊った2人は、内モンゴルでも最高峰とされる芸術団の“内蒙古自治区直属属烏蘭牧騎”に就職を決めた。実は私もオファーを受けたのだが、このときすでに舞踏の道を歩むつもりはなくなっていた。趙宝山君と趙忠君に朗読してもらった小説から受けた感銘、入院中の張さんに手ほどきしてもらいながらの読書経験を経て、気持ちは踊りではなく知識を得ることへと大きく傾いていたのだった。

 舞踏から学びへ。人生を左右する縁をくれた出会いにはもう1つ、シンバイル君との再会があった。シンバイル君はシリンホトで通った小学校の同級生だったが、奇遇なことに、彼の姉のルイさんが芸術学校でピアノの先生をしていた。芸術学校を卒業した年の夏、ルイさんが帰省している間の留守番を頼まれ、ネコと花の世話をしながら泊まり込むことになった。そこに、なんとシンバイル君が遊びに来たのだった。私たちは意外な再会を喜び合い、その晩は夜が明けるまで積もる話を語り合った。シンバイル君は小学生の頃から生徒会長を務める真面目な子だったが、中学時代には“全国優秀三好生*1”に選抜されるなど、見事に才能を開花させていた。いまは9月の高校入試のため受験勉強に打ち込んでおり、さらに大学進学を見据えて国の教育制度の変革についても詳しく調べているようだった。表彰を受けるほど優秀でありながら奢ることなく勉強に打ち込む彼の姿勢をみて、私自身も大いに奮い立たされた。

 結核を患ったこと、踊りの道を諦めたこと。読み書きを学んだこと、これからも勉強を続けたいと考えていること。私も、フフホトに来てからの数年の間に身の上に起ったこと、考えたことを残らず言葉にした。中国の高等教育はいままさに復興を迎えており、進学のチャンスも広がりつつある。知っていることは教えるし、できることがあれば応援するから、しっかり勉強を続けるべきだ。そうシンバイル君は言ってくれた。

 

文化大革命と文学

 再会の翌日、シンバイル君と私はフフホト市街の書店に出かけた。今後も勉強を続けたいという想いが一層強まり、よい辞書や参考書を紹介してもらいたかったからだ。良い本はすぐに売り切れる時代のこと、お目当てのものはなかったが、シンバイル君が好きだった作家、劉心武*2の小説が書棚に並んでいるのを見つけた。私たちは1冊ずつ買って帰り、モンゴル風のパンとミルクティーをたっぷり用意して思うままに読み耽った。『目覚めなさい、弟よ』(原題は“醒来吧,弟弟”)(第13回記事でも紹介)というタイトルの短編集で、文化大革命で両親が弾圧を受けたトラウマに苦しみながらも社会に抗う青年と、その姉の対話を軸に進められる物語だった。この小説の主人公に降りかかる悲劇は、当時多くの人々が経験したことでもあった。父を亡くし、母は獄を抱かされた私もそうだった。シンバイル君のお父さんは内モンゴルを代表する民間伝承の語り手だったため迫害を受け、やはり文化大革命期にはつらい想いをしていた。文化大革命という時代に翻弄され、人間性そのものを傷つけられた人々を描いたこうした小説は、“傷痕文学”と呼ばれ、中国の現代文学では主流をなすジャンルを形成しているということだった*3

コンシャンダック沙漠で否応なく遭遇し、私という人間の心と身体の根幹に大きな痕跡を残した文化大革命が、いま文学として表現されるようになっている。そのことに、私は言いようのない感銘を受けた。人民日報を読み、世の中に変化が生まれていることは理解していた。しかし、そこに書かれていた党の方針や政治思想の転換などよりも、人々の意識の変化の方がよほど大きなことなのだ。文学という表現を介して、1人の言葉はたくさんの人から共感を得て大きなうねりになっていく。読み書きを覚えたことで、私もその輪のなかに入ることができたという実感が嬉しかった。

 

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『目覚めなさい、弟よ』(原題は“醒来吧,弟弟”)*4
筆者撮影

 

*1:高い学力、健全な身体、正しい思想の3つを備えた青少年を表彰する制度。1950年代より実施されてきた。

*2:“傷痕文学”の旗の1人に数えられる作家。1942年四川省成都市で生まれ、文化大革命の時代には北京の高校で教鞭をとった。その経験をもとに1977年に発表した『クラス担任』(原題は“班主任”)を皮切りに、小説やエッセイを中心に現在まで数多くの作品を発表している。

*3:シンバイル君は、モンゴル語の文学作品も読んだ方がいいと言って、『ウニルツェツェグ』という文学雑誌を貸してくれた。それがきっかけの1つとなって私はモンゴル語も学び始め、1年後にはほぼ読み書きができるようになった。

*4:私がはじめて買った本であり、はじめて1人で読み切った本である。

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