第10回 コラム①「本と出会う場所」

 これまで本連載では私の少年時代を振り返ってきたが、今回は続きをいったんお休みし、本屋と図書館にまつわる本と思い出をいくつかご紹介したい。読者のみなさんに伝えたいこと、読んでもらいたい本が山ほどあって、本編だけではとてもお話しきれないからだ。今後も10回に1度を目安に、私が深く考えさせられた本についてコラム形式で徒然に書いていくので、どうかお付き合いいただきたい。

 

本屋

 これまでにも紹介してきたように、私が本を読めるようになった1970年代末の中国では出版と流通が大きく規制されており、読みたい本があってもなかなか手に入れることはできなかった。しかし、だからこそ本屋に足を運ぶ度に新鮮な出会いがあり、ときめきが感じられた。そのためか、今でも私は本屋に行くのが大好きだ。インターネットで注文すれば簡単に本が手に入る時代になっても、たくさんの本が並ぶ書棚を前に、思いがけない良書との出会いを探す楽しみは変わらない。初めての街でまず訪れたくなるのは書店だし、悩み事があっても書店に行けば心が休まるのだ。

 試しに数えてみたところ、この1年間に読んだ40冊ほどの本のうち、本屋と図書館に関するものは半数近くを占めていた。とくに意識して選んでいたわけではないので、知らず知らずのうちに手にとっていたようだ。つい先日読んだ『この星の忘れられない書店の話』は、15人の作家がそれぞれ書店や書店員から学んだこと、教えられたことを描いた作品で、帯には「作家を育てたのはどの国でも〈町の書店〉だった」とある。私もそうだが、本屋が好きな人や本屋から何かを学んできた人は、作家に限らずたくさんいるのだろう。

 本屋といっても色々あって、古本屋が好きな人もいれば、こぢんまりした個人経営の本屋が好きな人もいる。私はといえば、幅広いジャンルの本を扱う大型書店が好みだ。読んだことのない本でぎっしりの書棚にまず心躍るし、お客もほかの人を気に留めることなく本に集中しているので、人混みが大の苦手な私でも気楽に出入りできるからだ。来日してはじめて暮らした金沢では、街での用足しやアルバイトの行き帰りなど、市役所のすぐ裏手のうつのみやという大きな書店によく立ち寄っていた。お金がなかったその頃はいつも立ち読みばかりで、分からない日本語に出くわすたびに辞書コーナーとの間を往復しながら、つい長居してしまっていた。月に2、3冊の本を買うのが精いっぱいで儲けにならない客だったが、一度も嫌な顔をされたことはなく、店員さんの優しさには感謝している。

 最近では椅子に座ってじっくりと「立ち読み」ができたり、コーヒーショップが併設されていたりと、本屋はますます便利で快適になっている。とくに日本では、本屋が素晴らしいだけでなく、続々と魅力的な本を世に送り出してくれる層の厚い出版業界がある。安価な文庫本が幅広い良書を網羅しており、翻訳の水準も実に高い。哲学や経済からスポーツや料理までさまざまな世界のことを分かりやすく、面白く語りかけてくれる漫画という素晴らしい文化もある*1。私の蔵書の8割以上は日本語の本だが、それは私が日本で暮らしているからというよりも、よい本が人々の手に届きやすい環境が日本にあるからなのだと思う。

 

図書館

 次回連載で詳しく紹介するが、私がはじめて職に就いたのはシリンゴルの図書館だった。蔵書数5,000冊にも満たない2階建ての小さな図書館だったが、私はそこで働いた4年間にジャンルを問わずたくさんの本を乱読した。当時の図書館は、毎日開館前に行列ができるほど人が集う場所だった。本に関心がある人同士が交流し、本について深く考えることのできる場所だった。今ではシリンゴルの図書館も建て替えられて立派になったが、利用者の多くは試験勉強をする学生たちで、本の貸し出しはずいぶん減っているという。図書館の運営・維持はさまざまな地域が抱える課題であり、かくいう私も、自宅や研究室の本棚が埋まるにつれ図書館に行くことは少なくなっている。このようにして考えてみると、図書館は私たちの生活の変化を映す鏡だということもできる。

 図書館を通じて人間の歴史や未来を考えさせてくれる本は、意外なほどたくさんある。たとえば、アントニオ・G・イトゥルベの『アウシュヴィッツの図書係』は、アウシュヴィッツに収容された人々が隠し持っていた8冊の本を管理する「図書係」を務めた14歳のチェコ人少女ディタの物語だ。そこで描かれる本を手にすることのかけがえのなさは、第二次世界大戦中、従軍したアメリカの兵士に本を送り続けた運動をモチーフにしたモリー・グプティル・マニングの『戦地の図書館―海を越えた一億四千万冊』にも通底している。このほか、皆川博子著『辺境図書館』、マシュー・バトルズ著『図書館の興亡―古代アレクサンドリアから現代まで』、モスタファ・エル・アバディ著『古代アレクサンドリア図書館―よみがえる知の宝庫』などは、図書館という制度を生み出した人間という存在そのものに肉迫する作品だといえる。

 

文盲と盲目

 本屋や図書館、つまり本と出合う場所がしっかり根付いている社会でこそ、人々は豊かに暮らすことができるのだと思う。しかし、そうした場所とは無関係に生きねばならない人もいる。文字を読めない人、目が見えない人がそうだ。最後に、そのことに気づかせてくれる本を2冊ご紹介したい。

 まず1冊目は、法学者でもあり作家でもあるドイツ人、ベルンハルト・シュリンクが1995年に発表した『朗読者』だ。主人公の青年ミヒャエルは、かつて自分を救ってくれた女性ハンナが戦争裁判の被告席に立っているところを目撃する。戦中、ハンナは強制収容所で看守を務めていたのだった。裁判が進むにつれ次々と容疑がかけられるが、ハンナは最後まで抗弁をせずに罪状を受け入れてしまう。その理由は、罪状認否に関する証書にサインすることを避けるためだった。ハンナは文盲であることを恥じ、それが公になることを隠し通すために重罪を甘受したのだった。

 私には、ハンナのこの時の気持ちが痛いほど分かった。読み書きができること、近代社会に暮らす人々は、それが「あたりまえ」だと考えて疑わない。さまざまな理由でその能力を持たないままに近代という時代に巻き込まれる人々がいることに、なかなか気づかない。だから、文盲の人間はそれをひた隠して生きるほかないのだ。この本の著者は、ハンナという架空の女性を通じてその感受性、アイデンティティの叫びを描くことに成功している。戦後のドイツが向き合ってきた哲学的、思想的課題を読み手に問いかける作品でもあり、日本のみなさんにもぜひ一読を勧めたい。

 もう1冊は、盲目の少女を主人公の1人に据えた作品、アンソニー・ドーア著『すべての見えない光』だ。戦争がヨーロッパを分断した時代、フランスに生まれた盲目の少女マリー=ロールが、ナチス政権下のドイツに育った少年ヴェルナーとの邂逅を果たす長編小説だ。ラジオから流れる音が次第に2人を結び付けるサスペンス仕立ての物語は、私たちの生活が視覚から得る情報にばかり偏って成り立っていることに気づかせてくれる。テレビやインターネットを通じてあふれんばかりの情報が世界を飛び交う情報化社会に生きる私たちは、常に関心を煽られ続けている。スマートホン1つを操作するだけで、大きな図書館まるごと、あるいはそれ以上の情報を得ることができる。しかし、それに慣れてしまった私たちは、却って興味や好奇心を摩耗させ、散漫に日常を送るようになっているのかもしれない。試しに問うてみたい。私たちは自分が暮らす地域や隣人のことをきちんと見て、考えながら日々を送っているだろうか、と。

 サン=テグジュペリの『星の王子さま』に、「いちばん大切なものは目に見えないんだよ」という名言がある。私なりに解釈すれば、大切なものを理解するためには心の豊かさと、限界を認める謙虚さと、自らを省みる知性が必要なのだということだろう。より多くの情報を手にしたからといって、大切なものが増えるわけではないのだ。本連載第9回でもご紹介したが、ヘレン・ケラーは目が見えなかったが、世界をどのように見るべきかについてはよく分かっていたと思う。常に見えないという限界を感じながら生き、限られた情報を生かすために考えるからこそ、私たちが見逃してしまうことの大切さに気づけるのかもしれない。

 

 最後に、今回のコラムに関連する本の書誌情報を書き添えておく。いずれも良書なので、ぜひご参照いただきたい。これからもたくさんの本を紹介していくので、1冊でも手に取って読んでいただけたなら嬉しく思う。

 

 

*1:たとえばマルクスの『資本論』の要点を解説してくれる漫画では、難しい学術書とにらめっこすることなく、豊富なイラストに沿って2、3時間で基本的な知識を理解できるようになっている。手塚治の『火の鳥』や『ブッダ』などは、哲学書としても十分に読み応えがあると思う。また、私は金沢で大学院に通いながらレストランで料理人をしていたが、そこでは土山しげるの『喰いしん坊!』を読んで仕入れたアイデアや調理法が大いに役に立っていた。

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