第11回 図書館①「活字に飢えた人たち」

就職

 1979年の夏、舞踏の発表会を無事に終えた私は、芸術学校からの卒業を目前にしていた。読み書きを覚え、本を読む楽しみや知識を得る喜びを知ってからは、もっと勉強を続けたいという気持ちが芽生えていた。しかし、シンバイル君など友人たちの受験に向けた努力を思えば、10代の半ばでようやく文字を習得したばかりの私が進学したいなど、とても言い出せはしなかった。では、これからどうやって生きていくべきなのか。いまさら草原に帰ることはできない。祖父や母の期待を裏切ることになるからだ。やはり街で仕事に就くしかないのだろうが、はたして私にそのための能力があるのか、自信はなかった。

 1990年代までの中国では、専門学校や大学を卒業する若者に対して国が仕事を斡旋する仕組みがあったため、学生が就職活動をする必要はなかった。母の紹介もあって、私はシリンホト市文化局人事課の局長に直接面談することになった。「君は専門学校で舞踏を学んでいたんだろう。となれば芸術団だが・・・病気のことを考えると無理にとは言えないね。ほかに芸術や文化に関連する仕事で紹介できるのは、書店か映画の製作所などかな。君はどんなところで働きたいんだい?」と尋ねられ、私は思いがけず本に囲まれて働けるかもしれないと喜んだが、当時は女性の仕事だというイメージが強かった接客業務には抵抗があった。ほかに本がたくさんある職場はないかと聞いてみると、図書館に空きがあるという。私は迷わず、図書館で働きたいと答えていた。

 希望が叶い、就職先はシリンゴル盟図書館に決まった。図書館はシリンホトの中心街にあり、街で唯一の信号機が灯る十字路に面した2階建ての建物だった。1階は書庫と貸し出しカウンター、2階には閲覧室と事務室が入っていた。私の職場は閲覧室で、勤務時間もそこが開放される午後4時から9時までだった。閲覧室には新聞が7~8紙、雑誌が30誌ほどのほか、外国語の辞書や理系科目の教材が並んでいた。私は配架と貸し出し業務を任され、オルナーさんという50代女性の同僚に仕事を教えてもらうことになった。まだ漢字を書くことに慣れていなかったため、著者名や書名を記入しなければならない蔵書目録や貸し出しカードの作成は苦手で、しばしば作業を滞らせてしまった。オルナーさんは辛抱強く丁寧に指導してくれ、私も早めに出勤して筆記練習と図書館業務の勉強を続けたが、一人前に仕事をこなせるようになる頃にはおよそ1年が経っていた。

 

本に惹かれる人たち

 文化大革命を経て、中国で大学入試制度が復活したのは1977年の冬のことだった。政治的な“出自”ではなく実力で人生を切り拓くことができる時代を若者たちは歓迎し、全国で熱狂的な学習ブームが沸き起こっていた。その一方で人々の知識欲を満たす社会的な環境はまだまだ整っておらず、学校では1クラスに50人も60人も詰め込まれ、教材や参考書も容易には手に入らなかった。図書館は学習意欲に満ちた若者が本と知識を求める場所であり、私が働く図書館も、連日近くの進学校の学生たちで溢れていた。とりわけ外国語教育が再開されて間もなくのこと、学習に必要な辞書が不足しており、学生たちは調べものをするため足繁く通っていた。外国語の辞書はそれぞれ2冊ずつしかなかったため、英語、ロシア語、日本語など人気がある言語の辞書は開館の1時間も前に並ばないと利用できないほどだった。それまでの私は外国語を学ぶなど考えたこともなかったが、閲覧室に通う学生たちの真剣なまなざしに感化されたのか、海外への関心が徐々に芽生えていくようだった。

 夕方以降の時間帯には、学生だけでなく、新聞や雑誌を読むため仕事帰りの人々も大勢やってきた。とはいえ図書館の予算は潤沢とはいえず、閲覧できる雑誌の種類は少なく、人気の雑誌でも複数を配架することは難しかった。読みたいものを好きなときに手にすることができるという状況ではなかったためか、困ったことに雑誌の一部を破って持ち帰ってしまう利用者も少なくなかった。オルナーさんと私はこの問題に頭を悩ませ、返却された雑誌に欠損がないか、すべてのページを捲って確認することになった。私は手間がかかるだけでなく神経の磨り減るこの作業が嫌いで、なんとか負担を減らせないものかと頭を捻り、利用者に好きな作品を聞いてまわることにした。人気が集中する作品が連載されている雑誌は狙われやすいはずだから、重点的に監視することで被害を未然に防げると考えたのだ。聞き取りを続けるなかで、小説や詩、エッセイ、論説などを収めた文芸誌がとくに好んで読まれていることが分かってきた*1

 ある日、私は文芸誌『十月』から「飛天」という中編小説の掲載ページが切り取られているのを見つけた。雑誌を返却しに来たのはまだ小さな女の子だった。追いかけて声をかけると、女の子は泣きじゃくりながら破られたページを差し出した。また別のある日、『作品』という雑誌から「小さな川の対岸」(原題は“在小河的那辺”)というタイトルの小説が抜き取られていた。ある男子高校生のしわざらしいことは分かっていたが、本人は頑として犯行を認めようとせず、鞄を調べても破られたページは見つからなかった。共犯者がいるようだったが、あくまで嫌疑に過ぎなかったためそれ以上の追及はできなかった。オルナーさんは私の話を聞き、この学生に期限付きの貸し出し禁止処分を言い渡した。後日この高校生は破りとられた小説を持って現れ、スペイン語の勉強のため辞書を使わせてほしいと願い出てきた。犯人が分かる度に後味の悪い気持ちを味わうことにはなったが、本を読みたいという人の欲求のすさまじさ、人を惹きよせる本というものの魔性を理解するきっかけになったように思う。

 

図書館独り占め作戦

 聞き取り調査が防犯に役立ったかどうかはいざ知らず、子どもから老人まで多くの人からお勧めの本を教えてもらったことで、私はたくさんの魅力的な作品や作家を知ることができた。読んでみたい本のリストはどんどん増えていったが、勤務中は忙しくて読書する時間などないし、図書館の本を無断で自宅に持ち帰ることもできない。せっかく本に囲まれて働いていながら、それを手に取ることができないもどかしさが心のなかに積もっていった。不謹慎だとは思いつつ、私もこっそり読みたい作品を持ち帰ってゆっくり味わいたいという気分に駆られることすらあった。

 そんな風な葛藤を抱えながら働いていたある日、素晴らしいアイデアが沸いてきた。図書館が閉館した後、誰もいないあいだに本を読もう。これなら、思う存分本を読む時間と場所を確保することができるし、図書館から本を持ち去らずに済む。しかし、鍵がかかった図書館にどうやって入ろう・・・。いつも人で溢れる閲覧室を独り占めして本を読み耽る姿を想像し、ひそやかな楽しみとともに私は計画を練り上げていったのだった。

 いよいよ「図書館独り占め作戦」を決行する日が来た。準備は万端だった。勤務中に1階のトイレの窓を開けておき、退館前には閲覧室の扉にかけられた南京錠の留め具を少しだけ緩めておいた。午後10時に図書館が閉まると、私は図書館の向かいにある街路樹の陰に身を隠した。職員が帰宅すると、図書館に残るのは警備員のおじさん1人だけになる。私はおじさんの行動をじっくり観察し続けた。安い煙草の吸いすぎなのだろう、しきりに喉を鳴らしながら館内を一周すると、おじさんは図書館に隣接する管理人室に戻っていった。部屋から漏れる懐中電灯の明かりが消え、さらにしばらく待ってから、私は意を決して昼のうちに開けておいたトイレの窓を目指して猛然と走った。頭のなかで何度も練習していた通りに体が動き、窓からの侵入は拍子抜けするほどすんなりと成功した。細工しておいた南京錠も難なく開き、ついに閲覧室の扉に手をかけた。書架の上に等間隔に並ぶ雑誌の列が懐中電灯のか細い光にぼんやりと照らされ、まるで古代の墳墓に隠された宝物庫に足を踏み入れたかのようだった。

 それからの半年間*2、私は週に2、3回ほど図書館に侵入しては、懐中電灯や蝋燭の灯の下で夜が明けるまで本を読み耽った。静まりかえった時間、紙とインクの香りに包まれた空間で、誰にも邪魔されずに乱読を続けた。そこで出会ったさまざまな本については、来週あらためてお話ししたい。

 

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*1:本連載第8回で紹介した『読者文摘』や『大衆映画』のほか、中編小説を中心とした『十月』や『収穫』、短編小説と詩の『作品』、書評や抄訳の『読者』、評論の『中国青年』などが人気を集めていた。

*2:「図書館独り占め作戦」の開始から約半年後、図書館職員は本を借りて自宅に持ち帰ってよいことが分かった。この作戦そのものが大いなる徒労だったということになるが、思い出だけは残った。

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