第12回 図書館②「秘密の階段」

秘密の階段

 芸術学校を卒業してシリンホトの図書館に就職した私は、夜になるとしばしばトイレの小窓から館内の雑誌閲覧室に忍び込み、明け方まで読書に没頭していた。ある晩のこと、少し眠くなって横になろうと思っていたところで、あつらえむきに新聞紙が敷かれている一角を見つけた。ごろりと寝転んでみると、お尻の下が妙に柔らかい。どうやら、そこだけ板敷きになっているようだった。不思議に思って床板に手をかけると簡単に持ち上がり、その下にぽっかりと空洞が現れた。床板を取り外してみると穴の縁には梯子がかかっていたが、その脚は暗闇に紛れるように消えており、怖くてとても降りていく気にはならなかった。思わぬ発見に眠気は吹き飛んでしまったので、梯子に足をかけながら座って続きを読み始めたが、しばらくすると再び睡魔が舞いもどってきたらしい。あっと気づいたときには、手元で開いていたはずの雑誌がバサバサと音を立てて暗闇のなかに吸い込まれていくところだった。取りに行こうかどうしようかと散々悩んだが、結局は勇気が出ず、その晩はそのまま帰路についてしまった。

 翌日、私はオルナーさんに床の穴について尋ねた。曰く、建設当時は閲覧室の奥を書庫にしてそこに小さな階段をつくる予定だったが、閲覧室に配架する雑誌の数が急増したため、書庫を設ける計画自体が立ち消えになったのだという。私が見た梯子はその名残りなのだろう。正体が分かって少しは気が楽になり、私は“秘密の階段”を下ってみることにした。いつまでも雪が降りやまず、静けさが際立つ夜だった。ギシギシと木が鳴る音を聞きながら一歩一歩下り、ついに階下の床を踏んだ。ほっとしてあたりを見回すと、書棚に並ぶ無数の本が私をとりまいていた。こんなにたくさんの本を目の前にしたことがなかった私は、すっかり舞い上がってしまった。ところが、片端から本を手に取ってみても、面白そうな本が一つも見当たらない。さて、読みたい本を探すにはどうすればよいのか、私は途方に暮れてしまった。

 図書館で半年以上も働いていながら、私は蔵書が体系的に分類・管理されていることを知らなかったのだ。しかし、ひとまず書庫をひと巡り眺めてみると、整然と鎮座する本の背表紙に番号が割り振られていることが分かってきた。どうやら本は規則的に並んでいるらしい。ところが、端にある小さめの棚にやや乱雑に立てかけてある本だけは、番号の順序を無視して並んでいるようだった。ほとんど直感的に、自分の居場所に帰れない本たちが、ここに借り住まいしているに違いないと理解できた。この棚にある本は、読み終えたとき正確に元の場所に戻さなくともよいだろう。そう感じた私は、そこから1冊を選ぶことにした。端から順に追っていくと、思いがけず懐かしい響きのタイトルが目に留まり、心臓の鼓動が高まった。――『赤と黒』。芸術学校に通っていた頃、友人たちに朗読してもらった1冊だった。震える手に本を収め、その場に座り込んで表紙を捲った。数年の時を隔てて、趙宝山君、趙忠君の声が蘇るようだった。時を忘れてページを繰るうちに懐中電灯の明かりは頼りなく薄らいでいき、暗闇のなかに取り残されそうになってから我に返った私は、慌てて梯子を昇り返したのだった。

 翌日、気もそぞろに夜を待って再び梯子に足をかけた私は、件の書棚にたどり着いて目を疑った。『赤と黒』が消え失せていたのだ。当時の私には、その行く先は皆目見当もつかず、不運を前に立ちすくむしか術はなかった。どれくらいそうしていたのだろうか。ふと、山高帽をかぶった鼻の高い白人男が描かれた本の表紙が目に留まった(第13回記事の挿絵「『あぶ』の思い出」参照)。男の頬には大きな傷跡が刻まれている。私は惹き寄せられるようにその本に手を伸ばしていた。

 ひと月ほどかけて、私はアイルランド出身の作家エセル・ヴォイニッチの『あぶ』(原題は“The Gadfly”)*1というこの小説を読破した。真冬の書庫は厳しく冷え込み、持参した水筒のなかの水も夜半には凍りついてしまうほどだった。寒さを我慢できなくなると書棚の間を縫うように走りまわって身体を暖め、少しずつ読み進めていったのだった。『あぶ』は、オーストリア帝国による支配からの脱却を目指す1830年代イタリアの民族独立運動を題材にした小説だった。主人公のアーサーは青年イタリアの地下活動に加わるが、頼りない男だと相手にされない。彼は自らを変えるため、人生をかけた一策を講じる。自殺を装って姿をくらませ、南米に渡って革命運動に身を投じたのだ。13年の時が流れ、顔に大きな傷跡を刻んだ男がイタリアの土を踏む。「あぶ」の二つ名を持つその男こそ、かつて弱虫と呼ばれたアーサーその人なのだった。アーサーは幼馴染の恋人への愛と革命の信念との間で揺れ動きながらも再びイタリア独立運動に身を捧げ、英雄的な最期を遂げる。私は、人間が内面に抱える矛盾や葛藤を抉り出すかのようなこの作品に深く感動し、文学がつくりあげる美しくも残酷な世界へとますます惹かれていった。

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夜の図書館で本を読む私(筆者作成)

 

文学と詩がくれた贈りもの

 冬が過ぎ、春が訪れた。私は書庫のなかに外国文学の名著が並ぶ一角を見つけ、片端から乱読し続けていた。『あぶ』に続いて、ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』と『ノートル=ダム・ド・パリ』、チャールズ・ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』を読んだ*2。文学の知識などからっきしだったが、背表紙のタイトルや表紙の絵が美しいものを手にとっては思いつくまま随所を読み、気に入らなければまた書棚に戻した。『赤と黒』にも再会し、アレクサンドル・デュマやバルザックの小説にも熱中した。ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフなどロシアの文豪の小説も紐解き、主題の重厚さとなめらかで流れるような文章との対比に魅了された。

 小説だけでなく、詩にも惹かれた。とりわけ私の心を捉えたのは、プーシキンをはじめとして、ミハイル・レールモントフ、セルゲイ・エセーニン、ウラジミール・マヤコフスキらロシアの詩人たちだった。なかでも、貴族によって仕組まれた決闘に散ったプーシキンの死を描いたレールモントフの「詩人の死」は繰り返し読み、ついに諳んじてしまった。私自身も詩作の真似事をはじめ、夜の図書館で本を読む体験をもとに「夜は終わりを告げたが、朝はやって来ない」という詩をつくったこともあった。

 文学を楽しみ、詩をつくるなかで、語彙量や書き言葉に対する感受性は一気に磨かれたように思う。それは、単に読解や作文の能力が磨かれたということに留まらない変化をもたらしてくれた。文学や詩として残された言葉を介して、私は人間のもっとも奥深いところにある喜びや苦悩を想像し、生きることの意味を想像した。五感によって確かめられる世界をはるかに超えて、言葉によって紡ぎだされる世界は無限に広がっていく。夜の図書館で、私はそのことを知ったのだった。

 

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*1:エセル・ヴォイニッチ(佐野朝子訳)『あぶ』講談社、1981年。

*2:ユゴーとディケンズの3作品は、のちにモンゴル語や日本語でも読むことになった。素晴らしい小説であることに変わりはないが、言語ごとに文法上の性格や言葉の感触が異なることから読むときの印象は同じではなく、毎回新たな発見がある。

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