第13回  図書館③「私はモンゴル人だった」

モンゴル語との再会

 昼は図書館の閲覧室で働き、夜は「秘密の階段」を通って誰もいない書庫で読書を楽しむ日々が続いていた。閲覧室での仕事を教わっていたオルナーさんが、ある日モンゴル語で書かれた1冊の本を勧めてくれた。『ホホ・ソタル(青史)』という名の歴史小説だった。モンゴル人ならば知っておくべき本なので、ぜひ読んでほしいとのことだった。モンゴル語は間違いなく私の母語なのだが、読み書きはできなかった。オルナーさんはそれを知りながら、あえてモンゴル語の本を薦めてくれたのだった。「あなたが話すチャハル地方のモンゴル語はとてもきれいなのに、読み書きができないなんて勿体ないと思うの」。それまで聞いたことのない書名だったのだが、オルナーさんの応援が嬉しく、モンゴル語でこの本を読んでみたいという気持ちがふつふつと沸いてきた。

 実のところ、それまでにもモンゴル語の読み書きを習ったことはあった。シリンホトで通った小学校ではモンゴル語の授業があったし、芸術学校時代に病気療養のため帰省していた間にも、母から文字の書き方を教えてもらっていたのだ。しかし、その頃の私は読み書きの必要など感じておらず、結局は何も身につかないままになってしまっていた。本を読む楽しみを知り、漢字を習得した経験を持つ今ならば、途中で投げ出したりはしないだろう。その気持ちを母に伝えたところ、シリンゴルの中学校に勤めるガルマさんという知り合いにモンゴル語を教えてもらえるよう頼んでくれた。

 ガルマ先生は週に1度母の家にやってきて、1対1で個人授業をしてくれた。小学校の教科書を使って教えてくれたので、教材の学年が上がるにつれて着実に力がついているのがよく分かった。ガルマ先生が教頭に昇進して忙しくなったため個人授業も長くは続かなかったが、モンゴル語の読み方や作文の基礎はしっかりと教わることができた。『目覚めなさい、弟よ』(第9回記事参照)をはじめとした現代小説の面白さを教えてくれたシンバイル君も、私がモンゴル語を勉強しているのを知ると先生役を買って出てくれた。それだけでなく、もっと勉強を続けたいのなら、モンゴル語で受験できる大学もあると励ましてくれもした。図書館での仕事を辞めてまで大学進学を目指そうという気にはならなかったものの、世の中について広く知識を得るには中国語を学ぶほかないとばかり思っていた私は、モンゴル語も社会に出るために役立つのだと聞いて、大いに勇気づけられたのだった。

 

私はモンゴル人だった

 シンバイル君とは、『ウニルツェツェグ(芳しき花)』をはじめとしたモンゴル語の文芸誌を読んだ。ナチグドルジが詠んだ「ミニノッタグ(我が故郷)」や「ホーチンフ(古い子)」などの詩は心に響き、私たちはモンゴル語のレッスンだということも忘れて夢中になった。

ヘンティ、ハンガイ、シヤンの高く聳え立つ峰々

北の大地を飾る、緑溢れるタイガの森林

マナン、シラガ、ノミンの広大なゴビ

南に個性を放つ砂漠の海たち

これが我が故郷

モンゴルという名の故郷である

 

ヘルレン、オノン、トラーの清澈な江河

人々に癒しを与える渓流、泉、温泉

フブスグル、オブス、ブイルの青く輝く湖

人間、家畜の水源となった恵みの水たち

これが我が故郷

モンゴルという名の故郷である

(ナチグドルジ「ミニノッタグ(我が故郷)」、筆者訳出)

 

 モンゴル語で描かれるその風景は、草原を後にした日から何年も心の奥底に閉じ込められ、深く眠っていた懐かしい感情を再び揺り動かすかのようだった。中国や外国の作品にはない何か、おそらくはモンゴルに生まれ育ったからこそ感じられる何かが、確かにそこにあるのだ。折しもちょうどその頃、働いていた図書館ではモンゴル語の図書購入係を任され、モンゴル語の辞書や名作集などとともに、ナチグドルジの詩集や小説を片端から収集して読むことができた。その詩のいくつかは口伝えに国境を越えて流行していたが、ナチグドルジは外モンゴル(現在のモンゴル国に相当する地域)出身だったため、その他の外国文学と同様、文化大革命の時代には書籍としての出版は禁じられていた。内外を問わず当時のモンゴル文学は社会主義の影響を色濃く反映しており、人民が封建主義を打破して平等で豊かな生活を勝ち取るといったように、物語の基本的な構図では共通していた。しかし、外モンゴルの作品は厳しくもおおらかな遊牧の生活を感じさせる表現や言葉遣いで彩られているのに対し、内モンゴルの作品にはそれが欠けているような気がした。草原で育った私の心に直に届くのは、ナチグドルジのような外モンゴル出身の作家による詩や小説だった。

 たとえば、ナチグドルジの「羊飼いネタン」という小説には、モンゴルの遊牧民そのものを体現したかのような人物ばかりが登場する。主人公のネタンは遊牧民の子として生まれたが、少年の頃に出家してラマ(チベット仏教僧)となり、モンゴル人民共和国の成立後は還俗して遊牧生活に戻る。まさに私の祖父を彷彿とさせる人生であり、同時代に生まれた多くのモンゴル人が歩んだ道でもあったのだろう。群れからはぐれているところを助けた子ヒツジとの間に友情が育まれていく物語の展開も、遊牧民として育った者なればこそ共感できる奥深いものだった。

 一方、内モンゴル出身の作家による小説には、自然や動物よりも人間社会の表裏を鋭く描いた作品が多い。シンバイル君と同郷の作家アーオツルの「ブフ(力士)」は、地域の伝承をモチーフとした小説で、権力者たちの身勝手な争いが庶民を翻弄する不条理を描いたものだった。幼い頃から放牧の合間に鍛錬を続けてきた主人公のハルフーは、あるとき母の願いを聞いて地元ベーリンの豪族が主催する相撲大会に出場し、見事に優勝する。これを見たベーリンの豪族は専属の力士になるよう命じ、それまで負けなしだったウジムチンの力士に挑戦させた。ハルフーは正々堂々と相撲をとって勝利を手にするが、面子を潰されたウジムチンの豪族は怒り狂い、ベーリンへと兵を差し向ける。帰路に就いたハルフーは次々と差し向けられる追っ手を退け、牛車いっぱいに積まれた賞品の宝を母のもとに届けようと道を急ぐが、故郷の山がようやく見えたところで、ウジムチンの兵が放った矢玉を浴びてしまう。ウジムチンの豪族はそこで兵を収め、ベーリンとの争いは免れたが、ハルフーはそのまま帰らぬ人となる。人びとはハルフーを英雄として語り継ぎ、幼い頃にこの伝承を聞いたアーオツルが小説としてまとめ直した作品が「ブフ」だった。

 モンゴル語の読み書きは、2、3か月と短い間に、さほどの苦労もなく習得することができた。小説や詩を読めるようになると、その奥深いところまですんなりと入り込めるようになった。モンゴル語は母語なのだから当然といえばそれまでだが、中国語に比べると語彙や成句の数も限られており、言語としての性格がからりと分かりやすいのだろうと思う。読み書きを覚えたことで、それまでは意識することのなかった表現の美しさや深みに気づかされることも多々あった。さまざまな地域の伝承をもとにした作品を読み、“モンゴル”のうちにある豊かさを再認識させられたことも、私にとっては大きな収穫だった。――私はモンゴル人だった。モンゴル語の本と向き合えるようになり、私はあたらめてそのことを確かめていた。

 

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『あぶ』の思い出*1(筆者作成)

 

▼前回までの記事はこちら

*1:前回(第12回)紹介したエセル・ヴォイニッチ著『あぶ』中国語版の表紙絵をもとに、夜の図書館ではじめて目にした当時の印象を加味して描いた。前回更新時までに描きあげることができず、今回の掲載となってしまった。

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