第15回  受験勉強①「決意」

新たな道へ

 1980年の冬のある日のこと、高校に通っていたシンバイル君が久しぶりに遊びにきてくれた。大学入試向けの模擬試験を持ってきていて、私にもぜひ試しにやってみてほしいという。科目は国語で、文法と文学史の知識を問う問題、古文読解のほか、小論文を書かせる問題もあった。シンバイル君の言う通り、3時間の試験時間にあわせて問題を解いてみた。小論文では「あなたが最もよく知る人物についてのエッセイを書きなさい」という課題が出され、私は祖父のことを懐かしく思い出しながら解答用紙を埋めていった。数日後、再びシンバイル君がやってきた。高校の先生に頼んで私の分も採点してもらったそうで、模擬試験の結果を伝えに来てくれたのだ。シンバイル君は110点満点中の92点、私は78点だった。なるほどそんなものかと私はのんびりした感想だったが、シンバイル君は興奮した様子で、高校にも通っていない君がこんなに高い点数を取れるなんて信じられない、きちんと受験勉強をすれば大学に行くことだって夢じゃないぞと言うのだった。とくに小論文はほぼ満点で、シンバイル君の先生も驚いているということだった。

 それからというもの、シンバイル君は事あるごとに大学受験を勧めてくるようになった。はじめのうちは冗談だろうと思いはぐらかしていたが、会う度しきりにこの話をしてくれるところをみると、どうも真剣らしい。もっと勉強を続けたいという気持ちは、図書館で働きながらも私自身ずっと抱えていたものだった。シンバイル君の話を聞く度にその想いは徐々に大きくなり、いつしか大学を目指そうという決意へと変わっていった。

 ところが、いざ現実的に大学受験のことを考えると、当時の私は右も左も分かっていない状態だった。シンバイル君はもちろん、ほかにも高校に通う友達たちを訪ねては、受験に必要な科目を聞いてまわるところから始めねばならなかった。どうやら、国語のほかにも歴史、地理、政治などの文系科目、さらに数学をはじめとする理系科目も勉強しなければならないらしい。科目数の多さに早くも辟易しつつ、ともあれ教科書を揃えようと思って新華書店に出向いてはみたが、大学受験向けのものは難しすぎて身の丈に合っていないようだった。友達たちに相談してみると、私の学力は小学校高学年から中学生くらいだろうとのことだったので、まずは小学4年生の教科書を買って勉強を始めることにした。働きながら勉強しなければならないため、学習の方法にも工夫が必要だった。教科書や参考書を買ってひたすら覚えていけばなんとかなるだろうと思っていたが、文系科目はともかく数学などは暗記だけではどうにもならず、独習のコツを身につけるまではずいぶん苦労させられた。

 受験勉強を始めるにあたっては、もうひとつ大きな問題があった。モンゴル語と漢語のどちらで受験するかを決めなければならなかったのである。母語であるモンゴル語の方が勉強は楽なのだが、受験できる大学は内モンゴル自治区内の数校に制限されてしまう。漢語であれば選択の幅は広がるが、競争相手が増えるために難易度も跳ね上がってしまう。悩んでいる間にも時は過ぎていく。シンバイル君たちにも相談した結果、私は自分の可能性を信じて漢語での受験を目指すことにしたのだった。

 母にねだって勉強机と本棚も買ってもらい、いよいよ本格的な受験勉強が始まった。夜の10時に図書館での仕事を終えるとまっすぐに帰宅し、朝日が昇るまで机にかじりつく毎日だった。当時は夜のあいだ電気が止まってしまうことがしばしばあったが、蝋燭を灯して毎晩勉強を続けた。教科書や参考書を読んでも分からないところはノートにメモしておき、休みの日を待ってシンバイル君たちに教えてもらうようにした。本棚に並ぶ教材は小学4年生から5年生、6年生、そして中学生用と少しずつ増えていった。母がどこからか教員が使う指導用の本を入手してくれたため、学習のポイントを押さえながら勉強を進めることもできた。

 新しい知識を身につけるたびに世界が広がっていくようで、勉強そのものは決して苦ではなかった。しかし、数あるなかでどうしても好きになれない科目が2つだけあった。政治と歴史である。教科書に書かれているのは、共産主義がいかに優れているかということと、共産党の奮闘によって人々は苦難に満ちた時代から解放されたのだという歴史ばかりだった。中国にはたくさんの歴史小説や古典文学があるのに、そこからは起伏に富んだ歴史の面白さなどまったく伝わってこない。紋切り型の内容にはうんざりだったが、受験に合格するためには細かいところまで覚えなければならない。教科書を読んでいるうちに気分が悪くなって吐いてしまうことすらあったが、我慢するほかなかったのだった。

 

数学の魅力

 はじめはとっつきにくい科目だなと思っていたが、勉強を続けるうちにその奥深さにはまり込んでいったのが数学である。マルや三角などの図形を扱う幾何、記号を使って計算式をつくる代数など、それまで考えもしなかった発想に溢れていて新鮮だった。現実とは別に、人間の頭のなかだけで完結するもう1つの世界をつくりだしているような魅力があった。コンシャンダック沙漠で暮らしていた幼い頃、ヤギのいなくなった柵を指して「ゼロになった」と言ったトーデくんの言葉に感じた不思議な感触(連載第3回参照)にも似て、どこか私の心を捉えるところがあったのである*1

 母の知人のバージン先生という恩師に恵まれたこともよかった。バージン先生は中学校で数学と歴史を教える教師だったが、たまに私の家にやってきては数学の指導をしてくれた。先生は難しい問題を解いても褒めてくれず、かといって簡単なミスを叱ることもなかった。ただ、勉強が終わるとかならず「面白かったかい?」と尋ねてくれた。正解かどうかではなく、私がそこで何を感じとったのかをみていてくれるバージン先生の姿勢こそが、数学の魅力と学ぶことの純粋な楽しさを教えてくれたのだった。それだけでなく、バージン先生は勉強の合間に簡単にリラックスできる方法も教えてくれた。寝転がって大きく伸びをすれば身体は休まるが、それだけでは脳みその疲れはとれない。脳を休める秘訣は、頭のなかでひたすら四則演算を繰り返すことなのだという。まさかとは思いつつ先生の言うことだからと試してみると、確かに頭がすっきりするのだった。生徒の主体性を重んじる教育方針と、暗算しながらリラックスする癖。バージン先生から学んだことは、いまでも私のなかに息づいている。

 

 

*1:もう1つ、数学にまつわる印象深い思い出を紹介したい。芸術学校を卒業して間もなく、シンバイル君のお姉さんのルイ先生の部屋で留守番をしていたときのことだった(連載第9回参照)。テーブルのガラス板の下に、「ゴールドバッハの予測」と題した新聞記事の切り抜きが挟まれていた。数学史上の難題に解決の糸口をもたらした、陳景潤という数学者についての記事だった。中国の貧しい家庭に生まれ、反右派闘争では厳しい弾圧を受けたにもかかわらず、科学的探究そのものが困難だった時代に抗うように研究を続け、世界的な発見をなしたのだという。劣悪な状況にあってなお探究の心を失わず、才能と努力だけを頼りに偉大な功績を残した陳景潤の姿には、私だけでなく当時の中国に住む無数の人々が感動を覚えたはずである。

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