第18回 日本への憧れ①「中江兆民と福澤諭吉」

北京での学生生活

 友人や先輩たち、そして母の応援に支えられて挫けることなく大学受験を突破し、いよいよ北京での学生生活が始まった。いうまでもなく北京は中国の首都であり、内モンゴルから上京してきた私からすれば見たこともない大都会ではあったが、1980年代初頭の当時はまだほとんどの人が人民服を身に着け、都心でも通勤の時間帯には自転車に乗った人の波が道路を占拠するような光景がみられた。郊外に建つ大学の周りには田んぼや畑が広がっており、道端に自家製の野菜を並べて売る農家のおじさんや、三輪車に豆乳と“油条(ひねり揚げパン)”を積んで売り歩くおばあさんの姿もよく見かけた。

 今とはまるで違ってのんびりした時代だったが、大学の構内だけは一変して国際色が豊かで、アメリカやヨーロッパ、そして日本などからやってきた留学生や外国語教師が生活していた。長く閉ざされていた国際社会との交流がようやく再開したばかりの当時、学生たちはこぞって熱心に外国語を学んだ。まだ外国語学習のカリキュラムも整っておらず、参考書すら満足に手に入らないような状況だったが、辞書や教科書を丸暗記するなど単純な学習方法に頼りながらも、1年か2年のうちに大半を覚えてしまうような秀才たちが集まっていた。

 ところが、私自身はそんな外国語ブームとは無縁のところにいた。入学のときに手続きを担当してくれたスタッフが、私のことを「モンゴル人民共和国からきた留学生」だと勘違いしたからだった。一般の学生は外国語が必修科目になるが、「留学生」にさせられてしまった私は、そのかわりに“高級現代漢語”を受講することになったのである。同級生たちが青い目をしたきれいな女性の授業を受けているあいだ、私は厳めしい男の先生が担当する授業に出なければならず、ずいぶん不公平なものだと思ったものだった。

 当時の中国では、大学の開講科目は“公共課(共通科目)”と“専業課(専門科目)”に分類されていた。“公共課”は専攻にかかわらず受けることができる科目だったが、日本の「一般教養」とは大きく内容が異なっていた。教養らしいのは外国語くらいのもので、他はみな“共産党史”や“中国近現代史”など思想教育のための授業ばかりだった。そうした科目は大抵が不人気だったが、単位を取らなければ卒業はできない。あくびをかみ殺しながら授業に出るしかないのだった。また、これも日本の一般的なシステムとは違うところだが、専門科目に相当する“専業課”も1年生のうちから履修しなければならなかった。1学期は“中国刑法史”、“中国法律思想史”、“中国古代史”、“西方(西洋)法律思想史”、“西方法理思想史”、“犯罪心理学”などを履修したが、立派な講義名とは裏腹に、実に退屈な授業ばかりだった。専門科目の担当教員の多くは1950年代に大学を卒業し、その後の反右派闘争や文化大革命では精神的にも肉体的にも何らかの受難を経験した世代であった。そのため、公定のイデオロギーから逸れた考えを口にすることを恐れる気持ちが強かったのだろうと思う。教科書を棒読みするばかりで、自らの意見や解釈を交えた授業を聞くことはほとんどなかった。

 今でもそうだが、中国の大学は全寮制が基本である。私が入寮したのは、2段ベッドが4つ並んだ8人部屋だった。ルームメイトは北京出身の1人を除き、安徽省、湖南省、四川省、河南省、山東省と全国各地から集まった学生たちだった。それぞれ標準語を話しているつもりでも出身地の訛りがひどく、はじめのうちは簡単な会話を交わすのも一苦労だったが、お互い若者同士すぐに打ち解けることができた。いろいろな地域のこと、それぞれの専門のこと、それまで読んできた本のことなど、話のたねは尽きなかった。

 なかでも、同じベッドの上下を使うことになった安徽省出身の高くんとはとくにウマが合い、すぐに仲良くなった。明るくスポーツ好きの青年だった。農村の生まれだったが、小さい頃から勉強が好きで、上海に住む兄を頼って戸籍を移してまで名門高校に通い、一流大学を目指してきたのだという。大学の寮で一緒に暮らし始めてからも、高くんは毎朝5時には起きて勉強を始めていた。ときどき気分転換に私と一緒に外を走ったり、図書館の本を読んだりすることもあったが、学問に対する一生懸命さは誰にも劣らなかった。

 

導きの書

 1984年10月のある日、高くんと連れ立って北京随一の繁華街「王府井」を歩いたことがあった。百貨店やレストラン、本屋、洋品店などが立ち並び、大勢の買い物客で賑わっていた。まずは都会暮らしに相応しい一張羅を買おうと百貨店に向かい、会計の列に2時間以上も並ばされるなど一苦労もあったが、高くんは上下揃いのスーツを、私は新品のジャケットを手に入れた。

 次の行き先は本屋だった。高くんは英語、私は古文の辞書を探していたのだが、他にもそれぞれ好きな本を1冊ずつ買うことにした。お互いに読み終わったら交換しようと約束して、高くんは中江兆民の『一年有半』、私は福澤諭吉の『文明論之概略』を選んだ。いずれも、当時の中国でベストセラーになっていた『漢訳 世界学術名著シリーズ』のなかの1冊だった。このシリーズは、海外の思想家や哲学者の名著を中国語訳したもので、とくに知的好奇心にあふれる若者の心を掴んでいた。主に関心を集めていたのは欧米の古典だったが、私たちはそれよりも日本の著作を読んでみたかった。高くんも私も、それぞれ個人的に日本とのかかわりを持っていたからである。

 高くんの伯父は早稲田大学に留学したことがあり、卒業後に上海で起業してからも、終戦まで日本人と交流があったのだという。高くんの一番上の兄は幼い頃にこの伯父の養子となり、養父から影響を受けて日本の歴史や文化に親しんできた。高くん自身も中学から上海の兄の家族と暮らし始めたことがきっかけで、日中国交正常化後すぐの時期に中国を訪れた日本人と交流する機会があったのだそうだ。私はといえば、旧満州国に生まれた母と交流のあった日本人が、やはり国交回復の後に尋ねてきたことがあり、その頃からどこかしら縁のようなものを感じていた。

 このときに高くんと私で買った『一年有半』と『文明論之概略』は、大学時代を通じて読んだたくさんの本のなかでも、もっとも出会えてよかったと思えるものに数えられる。中江兆民も福澤諭吉も、日本では私が紹介するまでもなく著名人なので詳細には触れないが、彼の著作から私が強く影響を受けたことに限ってお話ししたいと思う。

 

 私は法学部に進学できたものの、一体何を、どのように学んで、何か学んだとしたらそれをどのようにしたらよいのか、何の計画も展望も持ち合わせていなかった。一方で、努力や才能では乗り越えられない壁を感じることはしばしばあり、当時の中国社会が抱えていたさまざまな矛盾に対する不満や憤りのようなものが心のなかに沈殿していた。哲学や思想の数々は、現実世界においてどのようなかたちで意味を持つのだろうか。そんな悩みにぶつかったとき、私を導いてくれたのが福澤と中江だった。中江は、『一年有半』のなかで次のように述べている。

わが国民は利害に敏く、理念に暗い。ことのなりゆきに従うことを好んで、考えることを好まない。そもそも考えるということ自体を好まないのだ。そのため、天下のもっとも明白な道理であっても、これをおろそかにして何とも思わない。長年、封建制度にあまんじ、武士ののさぼるに任せ、いわゆる切捨て御免の暴挙にあって抗わなかったというのも、原因はまさにその考えないというところにあったわけである。そもそも考えるということ自体を好まない。したがってなすことが浅はかで、十二分に深いところまで徹底するということがない。これから必要なのは、豪傑的偉人ではなく哲学的偉人を得ることである。*1

 この言葉はまさに自分のこと、そして中国が抱える病を指しているのだと感じた。中国は自らを社会主義国家としてもって任じていたが、これは表向きの顔であって、封建的で閉鎖的な側面もあったし、何より自由や平等とはほど遠い状態だった。『一年有半』からは、19世紀後半の日本社会を鋭い思考で批判する中江の感性がひしひしと伝わってきた。本を開くと闘病生活、政治経済、人物、食べ物などたくさんの項目に分かれていて、何を論じているのか一見するとよくわからないようだが、読み進めてみるとそこに通じる強い意志が感じられる作品だった。

 福澤の『文明論之概略』では、西洋と肩を並べる真の文明国家となるためには、人間同士が対等に向き合い、対話を重ね、智慧を養わねばならないと論じていたのが印象深い。この翌年に『学問のすすめ』を読んだが、大学時代にこの本に出会えただけで悔いはないのではと思えるほどだった。

信じることには偽りが多く、疑うことには真理が多い。*2

 安易に物事を信じるのをやめ、一度疑ってみること、別の角度から眺めてみること。それはより正しい選択につながると教えられた。何かを知ったまま、思ったまま、感動したままでやり過ごしてきた自分が、この頃から少しずつ変わりはじめた。退屈なことでも、結局は必要なのかもしれない。現実と向き合いながら自らの責任で判断を下すということ、それは福澤から私への助言のように心に響いた。

 明治時代という変革の時代にあって、中江兆民や福澤諭吉のような時代の本質を問い、導こうとする人物たちが現れたからこそ、日本は大きな舵取りができたのだろうと思えた。日本という国の歩んできた道は、私自身が、そして中国が目指すべき指針を教えてくれるのではないか。中国が直面する問題が何なのか、西洋から何を学び、どう向き合うべきか。二人の偉大な思想家と出会ったことで、私はそうしたことを考えるようになっていった。

*1:中江兆民(鶴ヶ谷真一訳)『一年有半』光文社、2016年。「考えることの嫌いな国民」より抜粋。

*2:福澤諭吉(斎藤孝訳)『現代語訳 学問のすすめ』筑摩書房、2014年。「文明は疑いが進歩させる 判断力の蓄え方」より抜粋。

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