第20回  コラム②「三大作家」の作品から

 

  本連載第10回に掲載したコラムでは、「本と出会う場所」と題して本屋と図書館にまつわる経験を紹介させていただいた。今回のコラムでは、シリンホトで勤務していた図書館ではじめて漢語訳版に出会い、その後日本語も含め複数の言語でも読み返した3人の作家――ヴィクトル・ユーゴー、チャールズ・ディケンズ、ドストエフスキーの作品から受けた影響についてお話しさせていただきたい。今回紹介する作品は、それぞれ異なる言語で再会する度に求めていたことを教えてくれ、心の糧となってくれた。専門家ではない私には文学史上の評価は分からないが、すくなくとも私のなかで「三大作家」なのである。

 

ヴィクトル・ユーゴー『ノートルダム・ド・パリ』

 夜の図書館で外国文学の書棚を物色しているとき、『巴里聖母院』という異国情緒を感じさせる本が目に留まった。ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の漢語訳版だった(連載第12回参照)。15世紀フランスを舞台とし、ノートルダム寺院で個性あふれる登場人物たちが繰り広げる数奇な物語を描いた小説だった。ジプシーの踊り子エスメラルダは美と純粋を象徴していた。ノートルダム寺院の司教補佐クロードは厳格さの仮面の下に嫉妬や欲深さを隠し、その養子として育てられた醜い青年カジモドは、外見とは裏腹に清らかな心を持っているのだった。王室憲兵隊の隊長フェビュスは美貌を誇るが、知性や性格には恵まれない。彼らが織りなす美と醜、善と悪の入り混じる人間模様は、悲劇的な結末へと収斂していくのだった。欲望、信仰、愛情、憐憫、誰しもが持つ人間的な情動に絡めとられるようにして、私は次々と切り替わる語りの視点を追いながら物語を追体験することになった。読み終えたときには感動したなどと嘯く余裕はなく、ただ疲弊した身体だけが感じられた。

 ノートルダム寺院がどのような宗教施設だったのか、この本を読んだとき私はわからなかった。しかし、聖なる場所というイメージはあった。聖地にあっても人間が嫉妬心を抱き、争いや悲劇を引き起こすことが信じがたかった。私の祖父が修行するチベット仏教の寺を想像していたからだろう。聖なる場所にこそ、深い闇の部分が潜んでいるのかもしれない。その発想は、ある意味では私の少年時代との決別でもあった。人によって社会の見え方が千差万別であり得ること、しかもそれが身分や立場の違いだけで説明できるわけではないこと。振り返ってみれば、私はこの本から多くのことを学んだのだと思う*1

 

『レ・ミゼラブル』

 言わずと知れたヴィクトル・ユーゴーの代表作であり、日本では『ノートルダム・ド・パリ』よりもさらによく知られている。本の厚さも『ノートルダム・ド・パリ』の2倍ほどあり、はじめて読んだ中国語版では900頁ほどだったと記憶している。やはり、読み切った時には全身に虚脱感を感じていた。

 主人公のジャン・バルジャンは働けど貧しい我が家庭を養うため、無意識のうちにパンを盗んでしまう。彼は逮捕され、たった1本のパンのために何十年も刑務所で過ごすことになる。彼の作品、いやおそらく19世紀の大作の特徴は、物語のなかに大きな問いが織り込まれていることにあると思う。それはときに哲学的であり、ときに道徳的、政治的である。ジャン・バルジャンは刑務所から出所したのち、行き場を探すなかである聖職者の家に招かれる。しかし、一晩の宿と温かい食事を与えてくれたことに心を動かされながらも、銀の蝋燭台を盗んで逃げだしてしまう。警察に捕らえられ、聖職者の家に連れ戻されたジャン・バルジャンに向けて投げかけられた言葉が印象深い。「その蝋燭台は私のものだが、彼にあげた。ほかにあげたものもあったのに、なぜ持っていかなかったのか」。そこで許しを得たジャン・バルジャンは、人間としての生き方を取り戻す。

 『レ・ミゼラブル』は中国語、日本語、ロシア語で読んだ。一度では咀嚼しきれない。何度読み返しても新しい作品のように思えてくる、不思議な作品である。

 

チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』

 シリンホトの図書館では、チャールズ・ディケンズの作品のうち『大いなる遺産』、『二都物語』を読んだ。しかし、『デイヴィッド・コパフィールド』は上・下揃っているはずが上巻しかみあたらず、読むのを躊躇していた。しばらくして新華書店で揃いのセットを見つけ、受験勉強に疲れたときの慰めとして購入したのを覚えている。ユーゴーの作品のように全身を没入して読まねばならない感覚はなく、気分転換にもなるような読みやすい作品だった。

 チャールズ・ディケンズは自身の作品をこよなく愛しているが、『デイヴィッド・コパフィールド』は何か特別で、最も偏愛する子供のような存在であると述べている。この作品が彼の自伝的な小説でもあるからだろう。善人も悪人も含め、出会ったさまざまな人の影響を受けて作家としての人生を歩み始める物語である。私はこの作品を通じて、イギリス人の知性とユーモアと皮肉に満ちた対話に魅了された。実際のイギリスはどうなのか当時はまったく知らなかったが、相手を傷つけたり、反感を買うことは決してないのだという印象を持った。

 5、6年前にディケンズの手になる英国史を手に取ることがあったが、そこでもやはり軽妙な筆致が魅力的だった。中国で一般にみられるような重厚で堅苦しい歴史語りとは大きく異なり、芸術と歴史が融合していると感じる。その意味で、ディケンズは読者を魅了する言葉の芸術家だと私は思う。『デイヴィッド・コパフィールド』もまた、イギリスの歴史をまるで小説を読み進めるかのようにすんなりと辿れる作品である。また、主人公が社会の矛盾に巻き込まれながらも人の優しさに助けられて前に進んでいくストーリーは、読み手にも幸せを感じさせてくれるものだと思う。私もまた、不運もあったけれど人との出会いには恵まれてきたなと思いながら読んだのだった。

 

ドストエフスキー『白痴』、『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』

 シリンホトの図書館の蔵書には、ドストエフスキーの『白痴』のほか、トルストイの『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『復活』があった。ソ連と中国、ソ連とモンゴルとは政治的な結びつきが強かったからか、中国では19世紀、20世紀のソ連の作品の翻訳版が多く世に出ていた。こうした背景から、私にとってロシアの作品はフランスやイギリスの作品に比べより身近に感じられた。とはいえ、『戦争と平和』と『復活』は読んでもつまらなく感じてしまったため、ちょっとページをめくっただけですぐに読むのを止めたのだったが。

 『罪と罰』との出会いは、大学生になってからのことだった。旧ソ連の大学を卒業した先生が担当していた犯罪学の授業で、あるとき『罪と罰』の作品を読んで罪と罰について自分の考えを述べよという課題が出された。図書館で借りようとしたがすでに借りられてしまっており、仕方なく本屋に行くと『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』が並んでいたため、せっかくだからと思い両方買った。

 大学を除名された主人公ラスコーリニコフは、高利貸の老婆を「耳が遠く、愚かで、生きる意味がない存在」とみなして殺してしまう。その死をめぐる精神的な葛藤のなかで、彼をもう一度立ち直らせようと懸命に試みるソーニャ。ラスコーリニコフは、最後に神を信じることで自らの罪を自首し、シベリアに抑留され新たな人生を歩み始める。社会に役立たない人を殺害することは、有用な人間を殺すことよりも罪は軽いのだろうか。課題を提出した後の授業で、そうした議論をたたかわせた記憶がある。突飛な思想や理念によって犯罪に陥るということは近代社会に蔓延しており、同様の事件は日本でも起きている。

 犯罪とは何か。その頃までの私は、教科書を鵜呑みにして反社会的行為だと捉えており、人間の生命、財産を違法に奪うことが犯罪であり、すなわち悪だと考えていた。しかし、ある社会組織がある理念に基づき革命を起こす場合、勝利すれば正当化、失敗すれば弾圧されてしまう。孤立や疎外のなかに潜む情念が罪へと結びつくことはあるが、しかし、犯した行為によってしか罪を語ることはできない。では個人と組織の違いはどうか、と考えればさらに複雑になっていく。法の上で裁かれる犯罪と、『罪と罰』が問いかける罪とは似て非なるものだが、現代社会を考えるうえでもそのまま通用する命題を提示したドストエフスキーは、文学者としてだけでなく思想家としても稀有な存在だと思う。

 『罪と罰』と一緒に購入した『カラマーゾフの兄弟』は、ドストエフスキーが死の直前に書いた作品である。『カラマーゾフの兄弟』では政治哲学、政治思想史から自由を問うのではなく、独自の理論を展開し、自由とは何なのかを深く問い詰めている。そこには、彼の死に対する自身の経験が色濃く反映されているようだ。ドストエフスキーは初期の社会主義運動に参加したことから死刑判決を受けるが、銃殺刑執行の直前に皇帝ニコライ1世の恩赦によって減刑となり、シベリアに抑留されたことがあった。彼はシベリアへの道中、ロシア帝国による圧政への抵抗運動を続ける女たちと出会い、福音書(聖書)を手渡される。女たちが抑留者を励ますため、唯一許されたのが福音書だったのである。ドストエフスキーは死の直前までこの福音書を読み続けたそうである。福音書に次のような言葉がある。「人はパンのみに生きるものに非ず」。埴谷雄高著『ドストエフスキイの生涯と作品』では、「戦争と平和がロシア生活の貴重な遺産というなら、カラマーゾフの兄弟は人類の魂にとって貴重な遺産となりました」(155ページ)と述べられている。

 ヨーロッパ文明を理解する上で、罪は重要な概念である。ヨーロッパ文明の軸となるのはキリスト教だが、彼らが生きるとき、神に反して罪を犯してしまった。私の祖母も、そして祖母の影響を受けて私もまた、(キリスト教的な罪の概念ではないが)「ボイン」と「ニグル」という善悪の観念のなかで生きてきた人間である。ボインは自然、人間にとって良いこと、福を意味する。それに反する行為はニグル(罪)となって人は罰を受けるのだと。子供のころから祖母にそう聞かされていた。罪と苦しみを描くドストエフスキーの作品は、いつの時代にあっても読者を深い哲学的思索へと誘う。その意味で、ドストエフスキーは時代とともに変化し、成長する作家なのであろう。

 

 「三大作家」の場合もそうだったが、私にとってもっとも多い本との出会い方は偶然によるもので、いまでも書店での衝動買いが大半を占める。その次が、何気ない会話のなかで相手が触れた本のことを覚えておいて、あとで探して読むというものである。1つのエピソードを紹介したい。2005年の夏、私は内モンゴル自治区の満洲里からモスクワ行きの列車に乗り、寝台のコンパートメントでデンマーク人の夫婦と乗り合わせた。彼らのベットに厚い本があった。その夫妻が薦めてくれたので本のタイトルをメモしておいた。2015年の秋、北京の三連書店で中国語訳(タイトルは『失憶的年代(Glomskans tid)』)を見つけて読んだが、それは北欧文学の魅力を知るきっかけとなっている。

 小説や詩は趣味に止まらず、私たちの精神を豊かにしてくれる。スマートフォンを見る時間を少し減らして、小説を見つけよう。

 

 今回は私が若い頃に読んで影響を受けた「三大作家」について紹介させていただいたが、ほかにもまだまだお勧めしたい小説はたくさんある。今後の連載でも折に触れて紹介していくつもりだが、ここで私なりの良書一覧を付しておきたい。読者のみなさんにとって、本との素晴らしい出会いの一助になれば幸いである。

 

【私が特に好きな作家と印象深い作品】

  • チャールズ・ディケンズ(イギリス)『デイヴィッド・コパフィールド』、『大いなる遺産』
  • ヴィクトル・ユーゴー(フランス)『レ・ミゼラブル』、『ノートルダム・ド・パリ』
  • アルベール・カミュ(フランス)『ペスト』、『異邦人』、『シーシュポスの神話』
  • フョードル・ドストエフスキー(ロシア)『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『白痴』
  • アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(ロシア)『チェーホフ短編小説集』、『チェーホフ四大戯曲』
  • ウィリアム・カスバート・フォークナー(アメリカ)『八月の光』、『響きと怒り』
  • イワン・セルゲーエヴィチ・ツルゲーネフ(ロシア)『猟人日記』、『父と子』
  • ミハイル・アレクサンドロヴィチ・ショーロホフ(ソ連)『静かなドン』、『人間の運命』
  • スタンダール(フランス)『赤と黒』
  • エルデン(モンゴル)『清冽のタミール川』
  • オー・ヘンリー(アメリカ)『オーヘンリー短編小説集』
  • 三島由紀夫(日本)『豊饒の海』
  • ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ(ロシア)『レールモントフ詩集』、『現代の英雄』
  • セルゲー・アレクサンドロヴィッチ・エセーニン (ロシア)『エセーニン詩集』
  • ジョージ・ゴードン・バイロン(イギリス)『ドン・ジュアン』
  • ジェーン・オースティン(イギリス)『高慢と偏見』
  • ウォルト・ホイットマン(アメリカ)『草の葉』
  • エミール・ゾラ(フランス)『ボヌール・デ・ダム百貨店』、『ナナ』
  • ダンテ・アリギエーリ(イタリア)『神曲』
  • ガブリエル・ガルシア=マルケス(チリ)『百年の孤独』、『族長の秋』
  • ジョージ・オーウェル(イギリス)『動物農場』、『象を撃つ』
  • チンギス・アイトマートフ(ソ連)『処刑台』
  • フランツ・カフカ(チェコ)『審判』、『変身』
  • パール・バック(アメリカ)『大地』
  • アルチュール・ランボー(フランス)『地獄の季節』
  • シャルル・ボードレール(フランス)『悪の華』
  • ジェイムズ・ジョイス(アイルランド)『ユリシーズ』
  • パウロ・コエーリョ(ブラジル)『アルケミスト』、『星の巡礼』
  • マージョリー・キナン・ローリングス(アメリカ)『仔鹿物語』
  • アーシュラ・K・ル・グィン(アメリカ)『オルシニア国物語』、『言の葉の樹』

*1:大学入学後、文学に関する多少の知識を仕入れてからあらためて読み返すと、ロマン主義の旗手たるユーゴーがフランスの歴史が転換していく場面を見てきたノートルダム寺院を舞台に選び、そこに美と悪、嫉妬と献身などを対照させていったことの意図も読み取れた。しかし、そうした文学史的な位置づけについての理解は、はじめて読んだときの衝撃を薄めるものではなかった。

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.