第22回 法治への道②「学問と読書」

 大学3年目の春学期、新たに制定された民法(“民法通則”)*1と刑法“行政訴訟法”に関する特別講座を聴講したことがあった。大学の教員ではなく実務に携わる講師を招聘して開かれた講義だったため、実践的な内容には大いに刺激を受けた。それまでの授業で法律の原則や意義についてはおおむね理解していたと思うが、具体的な条例の運用についてはほとんど無知だったことを実感し、卒業まであと1年と少しなのに大丈夫なのかと急に焦りを覚えた。同級生たちも同じ気持ちだったらしく、しばらくは皆で実践的な運用の勉強に集中するようになった。細かい法規や判例の知識を身に付けることに追われる日々だったが、そんななかでも、息抜きに手に取った本からは人間と社会のあるべき関係について広い視野で考えさせられることがしばしばあった。今回はこの頃に読んだ本のうち2冊を紹介させていただきたい。

 

『3つの法廷』

 学生たちの間で評判になった本は図書館でも常に貸し出し中が続き、かといって自分で買うお金もないということも多かった。そこで私たちは、これはという本を自分たちでガリ版刷りにして融通し合うということがしばしばあった。『3つの法廷』も、確かこうして手に入れた本だったと思う。法律の専門家ではなく、政治学者の厳家其が書いた本だった。「R-101型」という名のタイムマシンに作者が乗り込み、過去と未来の法廷を巡り歩くというSF風のストーリーだったが、そこで語られる問いは法の本質を深く考えさせられるものだった。R-101型は、まず17世紀イタリアの宗教法廷を訪れる。地中海を見渡すバチカンのサン・ピエトロ大聖堂の広場に降り立った主人公は、ローマ法王パウロ8世の使者に迎えられた。主人公を乗せた6頭立ての馬車は、ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられた花の広場を通ってパラチノ山の麓で森に分け入り、「異端者を裁く法廷」の前で停車する。そこではちょうどガリレオ・ガリレイに対する審議が結審し、ガルリ主教が判決文を読み上げるところだった。

 「汝は地動説を唱え、宗教生活と社会に大混乱をもたらした。汝の考えは聖書を冒涜し、哲学的な錯誤を犯し、神学に照らしても異端である。よって、汝が書いた『新科学対話』の出版を禁ずる。汝は牢獄で3年の時を過ごし、毎週必ず7回ずつ聖歌を歌う刑罰を受けるべし」――。その判決を聞いた主人公は、ガリレオが唱える地動説は間違っていない、地球は宇宙の中心ではなく太陽系の惑星の1つに過ぎないのだと擁護しようとするが、声を発する間もなくR-101型が動き出してしまう。時空のはざまに消えようとする主人公の耳には、「それでも地球はまわっている」というガリレオの叫びが響いていた。

 旅はさらに続き、主人公はスイスとフランスの国境に位置するフォルナーという小さい街に降り立った。R-101型の時計は1754年を指していた。美しい風景の街並みの町で、主人公はルソーやヴォルテール、ディドロやモンテスキューなどと交流し、彼らの思弁に耳を傾ける。

 そこでヴォルテールは、「人々が宗教を支持する理由は論証に耐えず、理性に反している。宗教とは、もっとも疑わしい根拠にもとづき、信頼に値しないことを証明しようとすることなのだ」と説く。ルソーからは、「人間は生まれつき自由だが、いたるところで鎖につながれている」という言葉を聞く。主人公は思わず「あなたが死んでから11年後にフランスでは革命が起こり、自由と平等が実現します」と口にするが、ルソーは難しい顔をするばかりだった。政治の体制が変わっても現実はそう簡単にうまくいかない、ルソーはそのことを見通していたのだった。続いてディドロはこう言った。「私は異端思想者として牢獄に入れられたが、けっして後悔せず、他人を咎めることはしない」。主人公は信念を貫くことが人類の英知につながるのだと感じ、「あなたの思想は数百年先まで受け継がれます」と伝えようとするが、いつの間にか目の前の思想家は姿を消しているのだった。

 最後に主人公と交流したのはモンテスキューである。その目にどこか哀しさを湛えた思想家は、立法、行政、司法の三権分立の必要を確信するに至った経緯を淡々と語り、権力は権力によってのみ操縦されるがゆえに、権力を分割して互いに抑制し合うほかないのだという。モンテスキューは『法の精神』を書きあげるため20年の歳月を費やし、ほとんど視力を失っていた。彼は最後に「趣味論」を書きたいのだと語るが、主人公はこれが実現しなかったことを知っており、何も言わずにその場を去るのだった。R-101型が再び動き出すなかで主人公は、偉大な思想家たちは人々の心のなかに「理想の法廷」を打ち立てたのだと呟く。

 最後に主人公が降り立つのは、『3つの法廷』が書かれた1978年からすると10年後の北京市だった。そこに主人公が知る煉瓦造りの建物が並ぶ街はなく、高層ビルが林立する風景が広がっていた。街ゆく人々は鮮やかな服に身を包み、柔らかい表情を浮かべている。法廷を探して歩きはじめると、女性の警官が声をかけて親切に道案内してくれ、道路を横切ろうとすると子どもが横断歩道を渡るように教えてくれる。主人公は法廷を探すのをやめ、街を散策するだけで満足するのだった。

 この章には「実践の法廷」というタイトルが付されている。法治と人権、そして自由の重要性を主張したかった作者は、なお言論が厳しい統制下にあった1978年の中国で著作を公表するために、直接に主張を繰り広げるのではなく婉曲にそれを表現する手法をとったのだろう。そこには、イデオロギーの時代に終止符を打ち、自由意思にもとづいて人々が秩序をもって暮らしていける社会への理想が描かれているようだった。私が『3つの法廷』を読んだのは、ちょうどこの「実践の法廷」の章で描かれていた1987年の北京だった。確かに10年の間にさまざまな法律がつくられ、法治社会を築こうとする動きは根付きつつあったが、作者が描いたような自由と自律が実現しているとは思えなかった。

 理想と現実の間には、一足飛びに越えられない溝がある。しかし、だからといって諦めるのではなく、それを1つずつ埋めていこうとする努力をやめないことこそが重要なのだろう。この本は、私に理想を捨てず現実を生きることを教えてくれた。それだけでなく、ヴォルテールの『哲学通信』やルソーの『法の精神』など、新しい本と出会うきっかけも与えてくれたのだった。

 

『現代の主要な法体系』

 次に紹介したいのは、フランス人の比較法学者ルネ・ダヴィドの『現代の主要な法体系』(漢語訳版は“当代主要法律体系”、原著“Les grands systèmes de droit contemporains”)という本である。ヨーロッパ、アメリカ、インドの法体系の特徴を歴史や文化と関連付けながら考察していく内容であり、法学の専門書には珍しく大胆な解釈が魅力的だった。私にとっては、イスラーム法の成り立ちについて学ぶきっかけにもなった本である。

 「西洋法律思想史」を担当していた先生が授業のなかで推薦していたのでひとつ読んでみようという気になったが、大学の図書館にも街の本屋にもなく諦めかけていたところで、人民大学の学生が持っているという噂を耳にした。そこで友達の伝手を辿って会いに行ってみたのだが、にべもなく貸すことはできないと断られてしまった。いったんは引き下がったものの、手に入らないと思うと余計に読みたくなるものである。何度も頼み込んだ末に、愛用していた革製ジャケットを譲るという条件で貸してくれるということになった。おかげでしばらく寒さに耐えて暮らさねばならなかったが、その価値は十分にあったと思っている。

 この本から得たもっとも大きな収穫は、イギリスとそのほかのヨーロッパ大陸の法体系には大きな違いがあり、それが文化的な背景にもとづいていることを理解できたことである。植民地統治を通じてヨーロッパの法体系は世界各地に広がっていったが、受け入れる側の文化や社会的な条件に合わせてさらに多様なものになっていった。そうしたなか、日本が明治時代にヨーロッパ各国を参考にしながらも換骨奪胎して独自の法体系をつくっていったことは、私にとってとりわけ興味深かった。

 社会主義的な法体系についての理解を深めることもできた。この本ではソ連の法体系の成り立ちが丁寧に跡付けられており、そこから社会主義と法の関係をあらためて考え直すヒントを得ることができたのである。ルネ・ダヴィドは、社会主義的な法体系を考えるうえで重要なのは、そこで「革命性」が常に主張されていることなのだという。社会主義国において法は労働者階級のためにあるとされ、その点において優越性が主張される。つまり、搾取されてきた労働者階級を救済するという歴史的な使命をもって、社会主義の法体系が正当化されるということである。しかし、その歴史的使命を果たす主体は共産党であるという前提があるために、法体系の構築が進めば進むほど、個人の権利や自由は却って縮小されていくのだというのである。

 当時の私は、社会主義国では法律とその運用が政治やイデオロギーに絡み取られているということに不満を抱いていたが、なぜそうした事態から抜け出せないのかはよく分かっていなかった。『現代の主要な法体系』は、歴史的背景を考えることがこの問いに答えるうえで必要であるということを教えてくれたように思う。

 

 ともすれば法律の実務家としての訓練に埋没しそうになる日々のなかで、『3つの法廷』と『現代の主要な法体系』は視野狭窄の罠から私を救い出してくれた。学問を修めるということは、社会のなかで生きていくためのスキルを身に付けるということ以上の何かなのだろう。そして、学問に触れる機会は大学の教室以外にもあふれている。読書体験は、読み書きを身に付けた誰しもに開かれた、もっとも大切な学びの場なのである。

 

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『現代の主要な法体系』*2

▼前回の記事はこちらです

*1:「民法通則」は1986年4月12日に中国の国会に当たる全国人民代表大会によって公表され、1987年1月1日から実施された。「行政訴訟法」は1989年4月4日に全国人民代表大会によって公表され、1990年10月1日から実施された。

*2:人民大学の学生に借りて読んでから数年後に本屋で偶然見つけて手に入れ、日本にも持ってきて大切にしている。

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