第25回 「大きな“壁”を前に」

 “天安門事件”が象徴するように、1989年は民主化運動と政府による取締まり、そして沈静化という激動の1年だった。フフホトでも内モンゴル大学、内モンゴル師範大学や内モンゴル牧畜大学に通う学生たちが中心となって北京の学生運動を支援したり、内モンゴル自治区政府機関前でデモを展開し、その動向は社会的な関心事となった。

 内モンゴルの学生運動は北京における学生共同運動と同じく、自治権の拡大、モンゴル人の生存基盤条件(特に遊牧民の放牧環境の保護)と民族文化に対する権利主張という独自の目標を設定していた。政治の民主化は考えなければならない重要な課題だったが、内モンゴル自治区では住民の8割が漢民族であるなか、モンゴル人にとって「自治権」と民族文化の維持が他のどんな問題よりも差し迫った深刻な問題だった。民主化運動が勃発する7年も前にモンゴル人出身の大学生や知識人を中心として、「自治権」を巡る大運動が起こり、手段やかたちを変えて運動は続いていった。

 私はこれらの運動の動機や目標に強く共感しながらも、母と母のパートナーの立場を考慮し、直接的には運動に参加することはなかった。どの運動をみても悲しい結末だったがゆえに、現実はそう簡単に変えられないのだと諦めの念を抱き始めていた。ただ、何もできないが、何かやらなければならないという衝動のようなものにも駆られていた。私にとって1989年は悶々と考え込みながら過ぎていった。

 

弁護士を目指して

 1990年の春、私の職場は法律専門学校から内モンゴル自治区行政管理学院大学(公務員の研修や育成をおこなう大学)の法律研究室に変わった。憲法、民族自治法や民族政策論の授業を担当したが、自分で内容を把握しているのと、人に教えるのとでは状況がかなり違うので苦労した。相手が大学生と研修員(政府幹部、一般公務員)であることもあってかなり緊張してしまった。これまでに色々と悩んだことをすっきり忘れてしまうぐらいに授業準備に熱中したし、同僚たちの授業や内モンゴル大学法学部の授業を聴講して立派に授業をやろうと必死になった。

 ところでなぜ転職したのかというと、法律学会で知り合った劉惊海さんという方に誘われたからというのが最もな理由である。劉さんは遼寧大学の法律修士課程修了後、行政管理学院に赴任したが、大学側から法律研究室を設置する仕事を任されたため、教員を探していた。この法律研究室は私が入る3年前にできたばかりで、30代半ばは劉さんだけ、ほかの6人は20代から30代前半のさらに若い人たちだった。劉さんのリーダーシップのもと、若手が自由な雰囲気のなかで研究に打ち込んでいる環境が魅力的に映り、転職を決めたのだった。

 法律を専門とする若い研究者や教員にとって、1990年は多難な年だった。この年に中国で司法試験制度が導入されたからである。大学や専門学校の法学部の卒業生がほぼ自動的に(ただし司法部門の認可が必要である)弁護士になっていた仕組みが改変され、弁護士として活動するためには司法試験に合格しなければならなくなった。試験日は新制度導入からわずか3か月後だった。私を含め同じ研究室の法学部出身者7名が受験生になった。

 十分な準備ができないまま受験生になった私が途方に暮れかけていたとき、劉さんや同僚たちの助言は大いに励みになり、自信にもつながった。劉さんは試験に関する情報を調べ、受験用の参考資料を買って見せてくれた。一日の仕事が終われば、深夜まで試験勉強という日を受験日まで繰り返した結果、劉さん、同僚の李さんと私の3人が合格した。この年の司法試験の合格率は5%にも満たず、7人のうちほぼ半数が合格したのは珍しかったようで、私たちの研究室は一躍注目を浴びるようになった。

 弁護士の資格を得ると、内モンゴル第二経済法律弁護事務所に職を兼任することになったが、私の主な担当は法律訴訟、経済法の契約違反や契約不履行の賠償案件だった。教員と弁護士の掛け持ち生活が続いたが、1992年に引き受けたひとつの案件で挫折を味わうことになった。フフホト北部にあるダルハンモーメンガン盟の遊牧民が馬17頭を所有していたが、ある日出稼ぎ労働者が遊牧民の馬を盗んだあげく売り払って逃走した。私と被害を受けた遊牧民は出稼ぎ労働者の雇用企業を相手に訴訟を起したものの、その遊牧民は中国語が一切話せなかった。憲法では少数民族言語の使用が認められているためにモンゴル語で訴訟を進めようとしたが、裁判所と検察側からはモンゴル語では審議できないと断られてしまったのである。結局のところ漢語で訴訟と判決が行われ、盗まれた17頭のうち行方が判明した3頭は返却されたほか、企業側に残り14頭の賠償命令が出たが、賠償金はごくわずかだった。原告の遊牧民は馬3頭が手元に戻り、賠償金も受け取れたからよかったと言ってくれたが、私は制度上の壁や自分の無能さに直面してひどくショックを受け、しばらくは案件を受けるのが怖かった。

 

研究とは

 その頃の私は、人が書いた本を読むのは好きだったが、自分もいつか何かを書き、人に読んでもらうという意識は全くなかった。しかし、劉さんは法律研究室の職員全員に対して論文を書くよう目標を立てた。論文とは研究成果をまとめたもの、といったぼんやりとした印象はあったが、実際のところどのように書いたらいいのか皆目見当もつかなかった。そんな私に劉さんはどんな相談にも応じてくれたし、自分が書いた憲法に関する論文をみせてくれ、参考になるだろうからと言って劉さんの先生の論文を用意してくれたりした。

 劉さんの期待に応えようと3か月ほど初めての論文と格闘し、内容はどうあれともかくモンゴル語で「ローマ法の啓示」という文章を書きあげることができた。内モンゴル大学の紀要に初めて投稿したが、当時はモンゴル語で書かれた法律に関する論文が皆無に近かったこともあって翌年には掲載された。職場が変わってからというもの緊張を強いられる日々だったが、論文を書くという目標をなんとか達成し、大学の授業にも少しずつ慣れてきたことで、私はようやく落ち着きを取り戻していった。

 ところがゆっくりできたのも束の間、このときの論文が目に留まったのかどうか、教育庁から自治法に関する教科書作成の依頼が舞い込んできた。仕方なくとりかかってはみたものの、自治法に関しては参考資料がまだ限られており、偏りなく全般的な概要を押えた教科書をつくるという仕事は難題に思えた。見通しも立たず手探りで始めた仕事ではあったが、幸いなことにこのときも研究室の同僚が助力を惜しまず支えてくれたため、おそらくは自治法に関しては初となる教科書を皆と一緒に上梓することができた。

 1990年代初頭には、もうひとつの印象深い出来事があった。1992年の秋、内モンゴル自治区人民代表常務委員会法制委員会の依頼を受け、「内モンゴル自治区老人権保障法」の施行準備に関する実地視察に行くことになった。法律策定、実施の過程を現場で見てみたいと思って参加したのだが、オルチョン自治旗、エヴェンキ族自治旗、ダフール族自治旗をめぐる1週間ほどの行程のうちほとんどは地元政府職員の報告を聞いて接待を受けるだけで、そこに住む人たちの話を直に聞く機会などまったく与えられなかった。法律がつくられ実行に移されるプロセスのなかに住民の意見が反映される余地がないことが分かり、私は再び大きなショックを受けたのだった。

 さらに内モンゴル自治区の各地を回ったこのときの視察では、モンゴル人と漢人だけでなくさまざまな民族がそこに暮らしているということを知った。先述のように司法の場ではモンゴル語の使用ですら十分に認められていない現状があるなか、さらに多くの少数民族の声に耳を傾けるためにはどうすればよいのか。気の遠くなるような道のりを前に、自分の無力を実感させられた。

 劉さんが率いる法律研究室で働いた3年半は、新しい仕事の連続で緊張と不安、ショックの連続ではあったが、その分だけ多くの経験を積ませていただいた。学問という営為についても、先人たちが築いてきた理論を理解していくこと以上に、それをもとに現実を捉え目の前にある事実と格闘すること、そのうえで翻って研究者として新しい知見を言葉にしていくことが大切なのだという確信をもてるようになった。机にかじりついて必死に学んだ時間、教員として知識を伝えることに四苦八苦した時間を経たうえで、研究と実務の双方に関わる舞台を与えられたことは、私にとって何よりの幸運だった。学問とは教室のなかだけで完結するものではない、ようやくにしてその意味を知ることができたからである。

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