第26回 「ついに、日本へ」

日本へ

 改革開放の到来とともに、外国との交流は技術、芸術、思想、そして娯楽などあらゆる領域で進展していった。海外留学は都会の若者たちの憧れの的だったが、1980年代の終わり頃までは、ごく一握りの秀才か官僚の子息だけが手にすることができる贅沢な切符であるに過ぎなかった。その後1990年代初頭になると、都市部での所得が徐々に伸び始め、また天安門事件を経て先進国が中国人留学生の受け入れ枠を拡大しはじめたことも相俟って、一般の人々にとっても現実的な選択肢として私費留学が浸透していった。

 私の周りにも海外への留学を果たす友人がちらほら増え始め、1992年にはモンゴルに2人、日本に7人が旅立っていった。ひとりだけ置いていかれたような寂しい思いをしていたが、そんな私にもついに海外留学のチャンスが訪れた。私の妻となった女性が一足先に日本の金沢に留学していたことが縁となり、私も来日することになったのである。

 忘れもしない1993年1月15日、大阪の伊丹空港に降り立った私は、妻と初老の男性に迎えられた。日本語はまるで素人のままだったが、「大変お世話になります。ありがとうございます」というフレーズだけは覚えてきたはずだった。ところが初の海外渡航に緊張していたのか、いざ挨拶する段になって言えたのは「ありがとう」というたどたどしい5文字だけだった。妻とともに迎えに来てくれた高瀬允先生*1には、佐分晴夫先生、鹿島正裕先生とならんで、日本で再び送ることになった学生生活を通じてお世話になることになった。

 伊丹空港からまずは新大阪に向かうため、バスに乗車しようとしたとき、重たい私の荷物をバスに入れる従業員がいた。その従業員が年配の方だったため手伝おうとすると、「それは俺の仕事!」と叱られてしまった。このとき私は、勝手の分からない外国に来たのだと、はっと目が覚める思いがした。特急電車に乗り換えて到着した金沢は、みぞれ混じりの雪景色だった。妻に翻訳をしてもらって寒いですねと伝えると、高瀬先生はうどんをご馳走してくださった。そこで先生が、「大変ですね」と口にされたのを覚えている。天気の話だったのか、慣れない食べ物のことだったのか、あるいは勉強を頑張るようにという激励だったのか。先生と別れて妻が住む金沢市菊川町の犀川沿いのアパートに向かいながら、その言葉の意味を考えていた。

 

新聞配達

 私は私費留学生だったが、経済的な余裕はまるでなかった。日本行きの航空券ですら親戚から借金をしてようやく買えたというありさまだったので、すでに2か月半後に迫った日本語学校入学の手続きまでには少なくとも半期分の授業料を稼がなくてはならなかった。ちょうど妻が郵便受けから読売新聞*2の配達員募集のチラシを持ち帰ってきて、このアルバイトはどうかと勧めてくれた。新聞配達というのがどういったものかよく分かってはいなかったが、えり好みをしている場合ではなかった。すぐに事務所を訪問し、妻に通訳してもらって働かせてもらいたいと伝えた。人事担当の小山さんという方は、人手不足なので留学生でも歓迎と言ってくれたが、1週間くらいで仕事を覚えることが採用の条件ですとのことだった。毎朝127世帯に自転車で朝刊を配ってまわるという内容だったが、購読契約している家を覚えなければならないのでなかなか大変そうだった。

 それから1週間、小山さんが運転するバイクの後ろに自転車でついていき、配達する家を教えてもらった。結局覚えられたのは90世帯分だけだったので、厳しくみれば試験には不合格だったのかもしれないが、雪で大変だった日も頑張ったからとおまけで採用してもらえた。週末の間に復習するようにと地図を手渡され、翌週から1人で配達を任されることになった。

 月曜日はなんとか時間内に配達を終えることができたが、苦情もあったようだった。投函方法に誤りがあったからだ。新聞は各家庭の郵便受けに3つ折りして投函する。投函するときは郵便受けから落ちないようにそっと入れる。ただ、何軒かの家庭は(北陸で寒いからか)家の中にしっかり入るように投函してほしいという要望をいただいていた。自分の頭のなかではきちんと記憶していたはずだったが、まだ見慣れないせいか日本家屋はみな似ているように見えて、勘違いがあったのかもしれない。小山さんから苦情の電話があったと告げられ、頑張りは認めるが今後は気をつけてねとクギをさされたのだった。

 新聞配達の休みは月にたった1日だった。また、顧客の名前や住所を覚えるのにも苦労したし、たとえばマンションでは「4」や「9」のつく部屋番号がなかったりするなど、日本特有の習慣に躓いたこともあった。朝3時半に事務所に出勤、4時には配達開始、5時には配達終了というのが理想だったが、実際のところは配達が終わるのが5時半ごろ、6時半に帰宅するのが常だった。私は金沢大学の日本語初級コースの受講生だったため、9時からの授業に出席していた。忙しい毎日も苦にはならなかったが、やはり身体に疲労がたまっていたのだろう。ある日、新聞配達を終えて帰宅の途中に倒れてしまった。どのように助けられたのかはっきりと覚えていないが、おそらく親切な方が救急車を呼んでくださり、病院に運ばれたのだと思う。私が健康保険証を持っておらず、中国人であることがわかると無料で診察してくれた*3。病院でぐっすり寝て、おいしい食事を取るとみるみる元気になった。新聞配達は結局のところ1年続けた。

 小山さんは、日本語の勉強用にと余った新聞をくれた。私はそれを家に持ち帰って、新聞と辞書を片手に日本語を勉強するのが日課になった。結核を患って入院した病院で新聞を使って漢字を教わった頃のことを懐かしく振り返りながら、私の人生では文明への道は新聞から始まるのだから頑張ろうと思うのだった。

 

日本語教室

 留学生向けの日本語コースでは初級、中級、上級があったが、私は初級クラスに入った。スウェーデンからの短期留学生3人、アメリカ人の留学生1人、それから中国人の留学生が4人いた。授業の途中から参加した私はすでに遅れをとっていた。ひらがな、カタカナの学習はすでに終了しており、文章や会話の学習が始まっていた。指導してくれた佐藤先生は「留学生はみんな英語がわかる」という固定観念をお持ちで、授業でしょっちゅう英語を挟んでいた。私は英語がわからない。日本語ができたとしても、将来的に英語の壁にぶつかるのではないかと漠然とした不安を覚えてしまった。一方、桜田先生という方は授業時間以外にも丁寧に指導してくださり、辞書や教科書をくれたりと親切にしてくださった。努力して追いつかねばと気を取り直し、天気の日には学校近くのお気に入りのベンチで勉強を続けた。学校のある丸の内は加賀藩主前田家の城だったことから景色が素晴らしく、自習するにはもってこいの環境だった。

 ひと月ほど経った頃には、日本語の会話も少しずつ聞き取れるようになってきた。新聞配達の事務所では、事前の打ち合わせのとき私はいつも「ハイ」と答えていた。話の内容はさっぱり分からなかったが、分からないと答えてしまうと解雇されるのではないかと怖かったのだ。そうしたやりとりが面白かったのか、私はアルバイト仲間のなかで「ハイさん」というあだ名で呼ばれていた。ある日、学生のアルバイト数人がお喋りをしているのを聞きながら、何となく内容が分かったので会話に入ってみると、「ハイさんが日本語喋れるようになった!」と驚かれた。それからは職場仲間とのコミュニケーションもうまくいくようになり、退屈だったアルバイトの時間も楽しいものになっていった。来日した日には「ありがとう」も上手に言えず気が滅入ったが、頑張ればそのうち日本語で生活できるようになれそうだと思えるようになっていた。

 

折り返し地点

 故郷の草原を離れたのが1976年だった。それから10数年間、都会での暮らしに馴染み、文字を覚え、学問を知り、教師そして弁護士として社会にかかわることもしてきた。次々と新しい環境に投げ込まれ、常に不安を抱えながらもがむしゃらに一本道を走ってきたような気がする。日本に来たばかりの頃の私にしてもやはり相変わらず夢中で前へ向かっているのだが、現在になって振り返ってみれば、この留学はそれまで辿ってきたレールから脱線し、自分の足の向くままに歩み始めるきっかけになっていたのだろうと思う。中国で歩んできた道が私を「啓蒙」へと導くものだったとすれば、日本に来てからの歩みは私に自立を教えてくれたと言えるかもしれない。

 1993年は、そういった意味で私にとって人生の折り返し地点なのであった。50回を予定している本連載も、今回で後半に突入したことになる。ここからは、日本で歩み始めた第2の人生をご紹介していきたい。

 

*1:高瀬允先生は金沢大学附属高校の校長を定年まで勤められたのち、教え子だった窪田新一先生の誘いを受けて内蒙古大学で日本語を教える職に就かれた。窪田先生は改革開放後最も早い時期に内モンゴルを訪れた日本人の1人で、内蒙古大学に所属して日本語を教えつつ、モンゴル研究に従事された。両先生は、内モンゴルと日本の間に架け橋を築かれた功労者であろうと思う。残念なことに高瀬先生はお亡くなりになったが、窪田先生は大正大学文学部で教授をされており、いまも親しくお付き合いしている。

*2:金沢などの地方都市では、読売新聞など全国紙の購読者はまばらに散在しているため、北國新聞などの地方紙に比べて配達員が受け持つ範囲は広くなってしまう。来日初年に配達員のアルバイトができたおかげで、金沢市内の地理にはずいぶん明るくなった。

*3:日本語ができるようになってから、診察料をお支払いするためこのとき診察してくださった先生に会いに行ったが、やはりお金は受け取ってくださらなかった。先生は日中戦争を経験したことから、中国人には親切にしたいのだとおっしゃっていた。その後も先生が亡くなるまで7、8年の間、ときおり連絡をいただいては美味しいものをご馳走してくださった。

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