第27回 「金沢で暮らしはじめて」

「点心之家」

 毎朝自転車に乗って新聞を配りまわっていたおかげで、金沢で暮らしはじめてひと月も経つ頃には市内の土地勘がつき、新しい生活環境にもすんなりと馴染むことができたように思う。それだけでなく、安定した収入を得ることができたおかげで学費を納めることができ、日本で勉強していく環境も整えることができた。とはいえ、どんなに生活を切りつめても新聞配達の給料だけでは赤字になってしまうことが分かり、別に掛け持ちの仕事を探すことになった。

 短期間の臨時アルバイトではあったが、クラスメイトの中国人留学生からの紹介で仕事はすぐに見つかった。中華料理店で、主に皿洗いやイモの皮むきなどの下働きを任された。鉄鍋ひとつで色々な料理をつくるのが中華料理だと思っていたが、その店には鍋のストックがたくさん用意されていた。なぜかは知らないがその店の料理長が一品ごとに鍋をとり替えていたからで、その分だけ洗い場も忙しかった。鍋だけでなく人の使い方も荒く、しょっちゅう調理助手を怒鳴りつけていたので、厨房の雰囲気はいつも荒んでいた。調理助手も機嫌が悪くなると流し台に鍋を放り投げて八つ当たりし始めるし、何といってもまかないの昼食がご飯と水だけになってしまうので、勤務中はいつもハラハラし通しだった。新聞配達の同僚たちとは和やかに冗談を言い合ったりする仲になっていたが、ここでは誰かと口をきくことすらほとんどなかった。意地の悪い人が1人いるだけで、職場やクラスの雰囲気はずいぶん変わってしまう。それはモンゴルでも中国でも、そして日本でもやはり変わらない。

 1か月間ひたすら耐えてこの職場での契約期間を終えて、すぐに次もまた中華料理店で働くことになった。妻が以前働いていた「点心之家」という広東料理店の店長と街中でばったり会い、立ち話ついでに私を働かせてもらえるよう掛け合ってくれたのだった。店長の竹園さんはもともとコーヒー会社のUCCで働いていた方で、香港、タイ、ベトナムなど海外での駐在経験が長かったことから、店でも留学生をたくさん雇っていた。私のように日本語がまだ上手に話せなくても受け入れてくれ、和気あいあいとした居心地のよい職場だった。

 「点心之家」で働き始めてから3週間ほど経ったある日、調理場担当の王さんが急に休むことになり、代わりに私が厨房を任されることになってしまった。竹園さんから頼まれて内心はかなり焦っていたが、日頃よくしてもらっている恩返しにと引き受けることにした。それまでも注文を受けたり配膳をするホールを担当することはあったので、およそ30品のメニューはだいたい覚えていた*1。外部の工場で調理されたものを揚げたり加熱したりして提供するメニューが多かったので、王さんのやっていたことを思い出してやれば何とかなるはずだ。そう信じて無我夢中で1日を乗り切ったのだが、意外なことに竹園さんからは料理の腕を褒められ、お客の評判も上々だと言ってもらえた。店を閉めてから話を聞くと、四川省出身の王さんの料理はどうしても刺激が強くなりがちだったので、辛いのが得意ではない私の味付けの方が、却って日本人の味覚にも受け入れられやすいということのようだった。もちろん、料理の腕自体は本職の王さんにとても敵わないと分かってはいたが、竹園さんから「次は麻婆豆腐をつくってくれよ。食べたいなぁ」と持ち上げられ、まんざらでもない気分だった。

 竹園さんの温和な人柄もあって、「点心之家」には国籍や年齢もさまざまなアルバイト仲間が集っていた。留学生だけでなく日本の高校生や大学生も働いており、全国有数のバトミントン選手だという高校生もいたし、学費や生活費を自分で稼いでいるという大学生もいた。若いうちに家事の基本や人との接し方を学び、経済的な自立への第一歩にもなる素晴らしい習慣だなと思った。この職場では年齢に関係なく先輩が後輩を指導するという関係も確立していて、学校では学べない社会のルールに触れる機会にもなっていた。

 私もアルバイトを通じて、日本社会を少しずつ理解していったように思う。アルバイト仲間とのお喋りは、その第一歩だった。お客がいないときや休憩中の控室など、少し時間ができるとお喋りをした。市内でおいしいレストランを見つけたとか、週末はどこに出かけたとか、いま流行している車は何かとか他愛もない話にも、日本を知るきっかけが隠れていた。その一方で、政治や時事ニュースなどの話題が交わされることはほとんどなかった。大学生でも自分の専攻や研究テーマについてはあまり語らないのが普通のようで、普段のお喋りでは真面目な話は避けられる傾向にあるということも知った。当時の中国では大学生といえばエリートであり、何人か集まれば政治や社会の将来を議論しあうという風潮があったので、はじめのうちは違和感を覚えたものだった。日本の若者は、アルバイトでお金を稼いで好きな趣味やスポーツに打ち込むような自立した一面を持っているのに、世の中のことにはあまり興味がなさそうにみえた。しっかりしているのかどうなのか、私にとっては不思議な感覚だった。

 アルバイト仲間からは私の出身についてよく聞かれたが、モンゴル人ではあるけれど中国出身だということは、頑張って説明してもなかなか伝わらなかった。旧満州を介してモンゴルと日本には歴史的なつながりがあったのに、現在のモンゴルの政治的状況についてはあまり知られていないのだと思うと少し寂しい気がした。また、なぜ日本に来たのかという質問もよく耳にした。とくに理由はないけれどチャンスに恵まれて来たのだと答えていたが、そう繰り返すうちに自分でも将来に向けたビジョンを持ち合わせていないことに気づき、日本語コースを修了した後の身の振り方も考えねばと思うようになった。

 

日本の印象

 私の部屋はアパートの3階にあり、窓の遠くには雪化粧した白山連峰を望めた。アルバイトの行き帰りに渡る犀川大橋からは、水面に遊ぶ野鳥たちの姿を目にすることもできた。金沢は緑が多く、自然に囲まれた素敵な街だった。

 しかしながら、冬の寒さだけは容赦なく厳しかった。マイナス40度にもなる内モンゴルの寒さに比べればなんでもないと高をくくっていたのが間違いで、湿った空気と雪に囲まれて過ごす金沢の冬はかなりこたえた。部屋にはコタツだけしか暖房器具がなく、毛皮の服も日本には持ってきていなかった。新しく防寒着を買う余裕もなく、春が来るまでの間は早朝の新聞配達が本当に辛かった。

 日本のスーパーには驚くほどたくさんの商品が並んでいて、しかも品質の良いものばかりだった。しかし当時はとにかくお金がなく、見るからにみずみずしい果物や綺麗なパッケージに包まれたお菓子を横目に素通りして、閉店間際に半額の黄色いシールが貼りつけられた惣菜くらいしか買うことはできなかった。デパートにも家具や衣類を見に行ったことがあったが、どれも目が飛び出るほどの値段で、とても手が出なかった。

 ある日、近所の道端にほとんど真新しいソファーが置かれていた。私はしばらくその場に立っていたが、道を行く人たちは見向きもせず素通りしていくばかりだった。授業に遅刻しそうになってその時は学校に向かったが、次の日もソファーはそのまま同じ場所にあった。標識に書かれた漢字から推察するに、どうやらそこはごみ置き場らしい。ちょうど通りがかったおばあさんに「このソファーはいらないものですか」と聞いてみると、そうだという。なぜこんなに綺麗なソファーが捨ててあるのかはよく分からなかったが、ごみならば持って行っても泥棒にはならないだろうと思い、自転車に載せて家に帰った。新聞配達をしながら注意してみていると、方々のごみ置き場にはテレビやラジカセ、本棚などまだまだ使えそうなものがたくさん捨てられていることが分かった。ソファーで味をしめた私は新品同様のものだけを選んで拾い集めていったが、必要な家財道具はあっという間に揃ってしまった。

 アルバイト仲間にこの話をしてみると、3月は引っ越しのシーズンなのでそうした「ごみ」がたくさん出る時期なのだという。運搬に費用がかかるため、もったいないけれど捨ててしまうことがあるのだそうだ。そうした理由でまだ新しいものが「ごみ」になってしまうことを知って、私は日本の豊かさを実感するとともに、どこか釈然としない違和感も覚えていた。知らない人が捨てたものを使うのは嫌だという同僚がいたので、私はまだ使えるものであれば誰かが使った方がいいと思うと伝えると、ムッとした様子でしばらく口をきいてくれなくなってしまったこともあった。

 そうしたことがあって、互いの関係が深まれば気安く話せるようになるということを後に知るまで、しばらくの間は日本人とのコミュニケーションは繊細で難しいなという印象を抱いていた。差しさわりのない話題を選び、相手の気持ちに合わせた言葉だけを口にして会話を続けるのは、当時の私にはなかなか難しいことだった。言葉が上達したとしても、その裏側にある価値観や習慣に馴染むことができるのだろうか。桜の咲く季節を前にして、私は日本での先行きに不安を覚えていた。

 

*1:中国では地方ごとに料理の名前が異なるため、チンジャオロースやホイコーローなど、代表的な中華料理の名前であっても日本に来てから初めて知ったものも多い。

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.