第28回 「研修生としての体験」 

日本語の壁、学問の壁

 1年間の日本語クラスを修了したのち、私は修士研究生として金沢大学法学部に所属することになった。授業が行われるのは金沢市郊外に建つ角間キャンパスで、菊川町にあるアパートからは自転車で小1時間の距離だった。キャンパスは山の中腹にあったため坂道も多かったが、新聞配達のアルバイトで足腰が鍛えられていたせいか苦にはならなかった。入学式の季節には、キャンパス周辺の山道沿いは桜で縁取られる。鳥のさえずりを聞きながら自転車を走らせる時間は贅沢ですらあった。

 大学院では鹿島正裕先生に指導を仰ぎ、火曜日と木曜日に研究室の留学生3人(中国人の菅さん、アメリカ人のマックスさんと私)で『国際政治の分析枠組』*1という研究書を輪読するゼミに出席することになった。初回の授業では章ごとに担当を決めて内容をまとめた発表資料をつくるよう指示されたが、私は3人のうち最後の第3章を任されたため時間的な余裕はたっぷりあった。その分だけしっかり発表資料を用意しようと思っていたが、いざ準備にとりかかってみると課題図書自体がとても難しく、内容を自分で理解するだけでも時が足らないくらいだった。学術的な用語と言い回しが並ぶ文章は、それまで日本語クラスで習ってきた日常的な言葉とはあまりにもかけ離れていた。中国で学んできた法学関連の本ならまだしも、国際政治に関しては基礎的な知識も持ち合わせていなかったため、鹿島先生が解説してくれた序章の内容すらほとんど理解できなかった。

 およそ1か月のあいだ努力はしたものの、発表を担当する日の前の週になっても準備はほとんどできてない状態のままだった。その日に発表した菅さんはもともと政治学が専門で、発表資料も日本語でつくってきていた。同級生と比べてみて自分の力不足がはっきりと分かってますます気持ちは沈んでしまったが、授業を終えてから鹿島先生のもとを訪れ、発表準備がうまくいっていないと告白することにした。先生はそれでも怒った様子をみせず、要点だけでもいいから書いてあることを正確に把握し、それを口頭で紹介すればよいと仰ってくださった。私は恥ずかしさで顔から火が出そうだったが、お情けで資料づくりを免除してもらったのだから、諦めずに内容紹介だけはしっかりしようと気を取り直したのだった。それからの1週間は『国際政治の分析枠組』を片時も手元から離さずに読み込み、なんとか自分なりの言葉で担当章の内容を伝えることができた。

 その後菅さん、マックスさんと徐々に打ち解けていくにつれ、みんな得手不得手があって悩みもそれぞれ抱えていることが分かってきた。菅さんは日本語の会話にコンプレックスを抱えていたし、マックスさんは漢字に苦手意識を持っているようだった。鹿島先生はそうした留学生が直面する言葉の壁を理解してくれ、授業では議論が煮詰まってくると日本語だけでなく英語も飛び交うようになっていった。そうして討論を続けているうちに少しずつ学術的な言葉にも慣れていき、前期が終わる頃には、鹿島先生のコメントや解説も6~7割は理解できるようになっていた。

 後期は学生がそれぞれテーマを決めて個人発表をすることになったが、私は鹿島先生に社会主義について発表してほしいとの依頼をいただいた。ちょうど冷戦が終結し、ソ連だけでなくモンゴル人民共和国も含めて社会主義国家に大きな変動が生じていた当時、国際政治学の分野でも注目される議論になっていた。私は自らの体験をもとに文化大革命や中国の改革開放についてまとめて発表したが、社会主義とは何か、社会主義はなぜ崩壊したのかについては一切触れなかった。いや、触れることが出来なかった。私は20年以上ものあいだ社会主義の思想や政治を教えられ、自らも学んできたが、社会主義について体系的に、理論的に思考することはほぼないに等しかったからだった。

 鹿島先生のゼミや法学部の講義を通じて、私は社会主義と初めて正面から向き合うことになったのだろうと思う。20世紀を通じて社会主義は思想から社会運動へ、さらには政治経済と国家運営の枠組みとなる体制へと展開していったが、実質的には21世紀を見ることなく崩壊した。そうした日本ではごく当たり前の認識すら、その頃の私には衝撃的な驚きだった。平等原則を追求したはずの社会主義が、独裁と恐怖政治を繰り返したのはなぜか。社会主義の崩壊は独裁的な政権の崩壊と結び付けられるべきなのか、それとも資本主義という外部要因が作用したからなのか――。それらを「教えられる」のではなく「考えさせられる」授業を受けるなかで、私は学問に対する見方をあらためていった。当時の私は、従来の研究を材料として自らの考えを構築し、論文として主張するという学問の基本的な作法すら身に付けていなかった。あるいは、社会主義の特徴とは「自らの意思で自由に考えることのできない人間の生産」であったのかもしれない。

 

「理解」という悩ましい問題

 大学院の授業に参加するようになってからは、他の学生の足を引っ張っているのではないかと、いつも不安を抱えていた。それまでと同様、思い悩むときに私が頼るのは本を読むことだった。大学に行く度に図書館に足を運び、履修していた授業に関わりそうな本を探した。しばらくすると有斐閣という出版社が学生向けの参考書をたくさん出していることが分かり、国際関係論の初学者向け入門書から読んでみることにした。授業で使っていた教材よりも分かりやすく要点がまとめられ、関連するキーワードの解説も充実していたので、自習用にはぴったりの1冊だった。貸出期間内では読了できなかったが、生協で注文してさらに読み進めることにした。日中辞典を引きながらノートをとり、2か月ほどかけてじっくりこの本と向き合ったおかげで、国際関係論に関する学術用語や概念の基本的なところは抑えることができた。日本語の書き言葉にもずいぶん慣れてきたという実感があった。

 しかし、私のなかでは同時に新たな悩みも生じた。日本語で書かれた参考書は、覚えるべき知識が書かれているだけでなく、ものごとを捉えるための視点を「理解」するよう読者を導く。さらに学問領域によってそうした視点や方法論はさまざまに異なっているため、「理解」を深めれば深めるほど正しい答えから遠ざかっていくような不安に囚われるのだ。社会主義という確固たる枠組みのなかで大学教育が成立していた中国では、すくなくとも同種の不安に直面したことはなかったように思う。日本語の能力を向上させれば「理解」に近づけるといった単純な話ではなく、知のあり方そのものに大きな違いがあるらしい。自由な発想、多角的な視野といえば聞こえはいいが、答えがあるかどうかも分からない問いを追求し続けることに不安はないのだろうか。これから本格的に日本の大学で学び始めようという矢先に、悩ましい問題を抱えることになってしまった。

 学問あるいは教育におけるこうした違いに気づいてからは、より広く日本の文化についても興味を持つようになった。そこで役立ったのは、やはり新聞だった。配達の仕事をしていながら、それまでは新聞を手にとっても見出しを眺めて主だったニュースを把握するくらいだったが、次第に内容の細かいところまで読み込むようになっていった。よく読んでみると新聞にもさまざまな立場からの意見が入り混じっていて、同じニュースについての記事であっても書かれ方にはかなりの振れ幅があるということが分かってきた。どの紙面でも横並びに政府の公式見解を繰り返す中国の新聞とは違って、毎日読んでも飽きることはなかった。新聞を読む習慣は日本語の練習になっただけでなく、さまざまな見方に触れるなかで学問を「理解」するための土台を築くきっかけにもなっていたのだと思う。

 

*1:岡部達味『国際政治の分析枠組』東京大学出版会、1992年。

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