第35回 「異文化研究の入口に立つ」

合格はしたけれど

 1996年2月、金沢大学より文化人類学専攻修士課程試験の合格通知が届いた。約半年間集中して勉強した努力が実ってひとまずはほっとしたが、これから何を研究するのか決めないまま進学を決めてしまったことに不安も抱えていた。実は面接試験のとき、面接担当のある先生から研究テーマを尋ねられ、とっさに中国北方の少数民族に興味があると口にしていた。ところが、中国北方にはいくつかの民族が暮らしているが研究対象はどの人々にするのかと問い返され、答えに窮してしまったところを鹿野先生にフォローしていただいたのだった。他の受験生は学部生の頃から人類学を学んできたようで、それぞれ関心地域やテーマを定めていた。桜が咲く季節を前にして、スタート地点から遅れをとっていることに焦りは募るばかりだった。

 

経験からテーマを探る

 人類学を通じて、私自身はいったい何を研究したいのか。自問自答を繰り返していたある日、ふと研究生時代のある経験が思い出された。当時の金沢ではモンゴル人の存在は珍しく、あるとき金沢市役所国際交流課からの紹介で、市内の小学校でモンゴルの遊牧民について話をする機会をいただいた。授業が終わってから私は小学生と一緒に給食を食べ、午後は子どもたちとお喋りをする時間も設けていただいた。意外なことに子どもたちはモンゴルの生活に興味を持ってくれているようで、始終質問攻めにあうことになった。モンゴルの子どもはどんな遊びをするのかと聞かれ、草原で相撲をしたり草木で水鉄砲など遊び道具を手作りして遊ぶんだよと答えると、じゃあやってみせて!とせがまれるのだった。私が何より驚いたのは、子どもたちが「スーホの白い馬」の物語を知っていることだった。話を聞けば国語の教科書に載っているとのことで、授業で習った話のなかで一番好きだという子どももいた。モンゴル人が白いゲル(移動式住居)を建てて草原に暮らし、遊牧生活をしてきたことも多くの子どもたちが理解しているようだった。

 そのことを思い出しながら、私は自分が生まれ育ったモンゴルの遊牧生活を研究するのも悪くないという気になっていた。しかし、それまで文化人類学について学んできた限りの知識では、この学問の醍醐味はあくまで異文化理解にあるという。せっかく新しい学問を学び始めたのだからその面白さを味わってみたいという気持ちも捨てがたかった。春休みの間ずっと悩み続けても答えは出ず、「ひとまず」という前提をつけることにして、私は内モンゴルの東部に位置するホロンバイル盟、とりわけ大興安嶺に住む人々を研究対象に据えることにした。海外調査に行く経済的余裕などなかったし、中国のパスポートを持つ私は自由に世界を行き来できるわけでもなかったから、中国と日本以外の第三国を研究するという選択肢は現実的ではなかった。また、中国の西北や西南地域にもさまざまな民族がいるということは知っていたものの、具体的なイメージが浮かばず決め手には欠いた。ホロンバイル盟には法律の仕事をしていたときに一度だけ訪れたことがあり、そこではモンゴル人以外にもブリヤートやエヴェンキ、オロチョン、ダフールなど複数の民族が居住していること、しかも彼らのなかには牧畜生活をおくるモンゴル人とは違って狩猟を営む人々がいることに驚いた経験があった。それはある種の「異文化体験」として私のなかにあり、これをさらに深く追求することは文化人類学の研究と近いのではないかと考え、「ひとまず」はそこからはじめてみることにしたのだった。

 

遠くから見ることの意味

 改革開放が軌道に乗りはじめると、日本や欧米に留学する中国人は次第に多くなっていった。私が大学院に進学した1990年代半ばには、海外で博士論文を提出して研究者になる人たちもちらほら出始めていた。研究室には中国人が日本語で書いた研究書が人類学に限らず幅広く揃えられており、研究の方針を定めるにあたってとても助けられた。たとえば、東京大学で文化人類学を学び、中国東北地方の農村で調査を行った聶莉莉『劉堡―中国東北地方の宗族とその変容』(東京大学出版会、1992年)や、同じく東京大学で歴史学を学び、社会主義体制が敷かれる以前の中国におけるイスラムを描いた王柯 『東トルキスタン共和国研究―中国のイスラムと民族問題』(東京大学出版会、1995年)などは、日本国内でも高い評価を得た本だった。それらはいずれも、外国人には閲覧が難しい档案と呼ばれる資料や聞き取り調査を駆使して書かれたもので、少数民族や周縁地域に暮らす人々がいかに社会主義への適応を試みてきたか、あるいは強いられてきたかがありありと描かれていた。そうした本を読むなかで、私の関心は、少数民族と呼ばれる人たちが継承してきた文化や社会システムが社会主義化の進展とともにどのような変化に直面してきたのか、という問いへと向かっていった。

 1990年代になると、日本人による中国留学や調査が広く行われはじめ、中国で出版された文献を日本で利用することも容易になっていった。日本人が中国少数民族の社会主義経験について論じる、といったことも可能になった。たとえば一ノ瀬恵『モンゴルに暮らす』(岩波書店、1991年)は、内モンゴルに留学し、モンゴル語を専攻しながら日本語教員を務めた著者が綴った体験記ではあったが、少数民族政策の転換によって変化し続けてきたモンゴル人の生活が鮮やかに描かれていた。実は、この著者は私の義理の父の学生だったため、内モンゴルにいたときから知っていた。しかし、その本では私がとりたてて意識したことのなかった「あたりまえ」が丁寧に描かれており、モンゴルの草原で育った私にとっても読みごたえのある本だった。

 張承志*1『モンゴル大草原遊牧誌―蒙古自治区で暮らした四年』(朝日新聞社、1986年)もこの頃に読んだ。著者は文化大革命のさなか下放(学生や知識人を地方に送り込んだ政策)され、内モンゴル自治区シリンゴル盟ウジムチン旗の遊牧民とともに遊牧生活を送った。文化大革命が終了してから著者は北京大学と中国社会科学院で学び、さらにその後来日して、内モンゴルで過ごした4年間についてこの本をまとめたのだという。政治的混乱を横目に見ながら言葉を身につけ、遊牧生活をおくった著者によって書かれたこの本もまた、発見の多い1冊だった。

 

 金沢の小学校で子どもたちと交流し、モンゴルや遊牧に関する著作を読んだとき、気づいたことがあった。私はモンゴル人であり、遊牧生活を経験してきたが、その意識も人びとに語る言葉も持ち合わせていなかったということである。日本の子どもたち、金沢大学の先生、人類学研究室の学生、そしてアルバイト仲間までもがモンゴルに関心を持ってくれたにもかかわらず、当時の私には、モンゴルの生活についてしっかりと説明できた記憶がなかった。近くにあるはずのものよりも、遠くにあるものの方がよく見えることがある。文化人類学との出会いは、まずそのことを教えてくれたように思う。

 

*1:張承志は研究者であるが小説家でもある。モンゴル族、回族、少数民族地域に関する多くのエッセイ、小説を残している。彼の作品等については後日紹介したい。

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