第38回 「初めてのフィールド調査①」

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フィールドワークの難しさ

 1996年の夏8月から9月にかけて、かつて今西錦司たち人類学の大先達が旅した大興安嶺を訪れることになった。夏休みに入ってからもアルバイトに励んでお金もなんとか工面でき、いよいよ初めてのフィールドワークを待つばかりとなった。大興安嶺はオロチョン人とエヴェンキ人の居住地域に跨っていたが、どちらの民族が暮らす地域に行くべきか。また、現地では誰を頼ったらよいのか。調査計画の細かいところでは詰めきれない部分を残したまま出発の日を迎えてしまったが、なんとかなるだろうと腹をくくるほかなかった。

 現地の情報収集を兼ねて、まずは内モンゴルのフフホトで1週間ほどを過ごすことにした。来日以来3年ぶりの帰郷だった。さらに資料を集めるため北京にも立ち寄り、手始めに少数民族の研究者が集まる中央民族大学でエヴェンキ人やオロチョン人を専門とする研究者を探すことにした。夏休みだったので教員のほとんどは不在だったが、歴史学・民族学部の建物で右往左往する私を見ていた事務職員が、「オロチョン人ではないけれど、大興安嶺の方の出身の先生が明日来るはずから、訪ねてみたらどう?」と声をかけてくれた。その言葉にしたがって大学に併設された宿泊施設に泊まって翌日出なおしたところ、私よりも少し年上の女性の祁惠郡という先生を紹介してもらえることになった。祁惠郡先生はホロンバイル盟の中心地ハイラル出身で、ご自身はオロチョン人やエヴェンキ人ではなくモンゴル人を研究しているということだったが、ホロンバイル盟文学芸術連合会会長のウラルト(烏熱爾図)という人に会うべきだと推薦してくれた。

 やはり祁惠郡先生が紹介してくれた学術書専門店で『オロチョン族の社会歴史』、『エヴェンキ族の社会歴史』を入手すると、私は早速ハイラルに向かった。ホロンバイル盟文学芸術連合会を訪ねてみたが、ウラルトさんは中国中央テレビ局の「東方時空」という番組の取材を受けるため、ちょうど入れ違いで北京に向かったとのことだった。

 がっかりはしたがすぐに気を取り直し、オロチョン人が多く住んでいるという阿里河という街に足を延ばしてみることにした。まずは資料収集をしようと宗教民族事務局を訪れたところ、オロチョン人に関する民族資料はかなりたくさん所蔵されているようだった。予想以上の収穫に喜んだのもつかの間、担当してくれていた職員は思いがけない言葉を口にした。資料の閲覧はよいが、実地調査は内モンゴル自治区政府かホロンバイル盟の政府からの許可がないと認められないというのだった。調査をするのに許可が必要だとは知らず、その言葉には戸惑うばかりだった。政府機関があるフフホトやハイラルに戻ったところで、何の伝手もなしにすぐ許可証を発行してもらうことは難しいだろう。そう判断してなんとかならないかと1週間ほど阿里河に滞在していくつか役所を回ってみたが、やはり許可を取得することはできそうになかった。その間にオロチョン人の知り合いも何人かできてこの地域の状況について聞くことができたが、どうやらもともと狩猟を生業にしていた人々の間でアルコール依存症が蔓延しており、貧困や教育の不足といった問題も深刻化しているようだった。外部からやってきた私に調査を許可しないのも、そうした現状を知られなくないからなのかもしれなかった。

 

エヴェンキ人との出会い

 すでに日本に戻る飛行機の搭乗日まで数日と迫っていた。このままでは、初めてのフィールドワークが失敗に終わってしまうかもしれない。手ぶらで帰ることになっては、これまでの苦労が水の泡だ。焦りを覚えた私は、阿里河からハイラルに直接帰るルートは取らず、トナカイ牧畜と狩猟を生業とするエヴェンキ人が住む根河市に足を延ばしてみることにした。

 根河市では地元政府が経営するホテルに泊まっていたが、到着の翌朝ホテルで朝食をとっていると、隣のテーブルに騒々しい集団がやってきた。聞くとはなしに話声を耳にしていたが、彼らの中心にいた人の名前が出てびっくりしてしまった。なんとハイラルで訪ねて会えなかったウラルトさんが、「東方時空」の番組スタッフと食事をしていたのだった。この幸運を逃してはならない。頃合いをみて話しかけ、今回の旅行の目的についても説明してみたところ、ウラルトさんは「食事を終えたらハイラルに戻りますが、たぶん根河市宗教民族事務局長の杜端霞さんが見送りに来てくれると思います。彼女を紹介しますので、入り口で待っていてください」と答えてくれた。私は食べるのをやめて、すぐに根河宾館のエントランスへ走った。

 そこで立ち話をしていた3、4人のなかに、女性が1人だけいた。私はこの人が杜端霞さんに違いないと直感して尋ねてみたところ、やはりそうだった。「日本で文化人類学を学んでいる者です。トナカイを飼うエヴェンキ人の生活に触れてみたいと思っています」と自己紹介をしているところにウラルトさんがやってきて、「なんだ、もう知り合いになっていたのか。この青年をよろしく頼むよ」と口添えをしてくださった。

 ウラルトさんを見送ったあと、杜局長のオフィスに案内された。杜さんはホロンバイル盟出身のエヴェンキ人で、私が訪れてみたいと思っていたオルグヤ(奥鲁古雅)という村で5年間働いたことがあるということだった。トナカイの放牧や地域の状況などについて話を聞かせてくれたが、調査予定期間が残すところ僅かだと知ると、ならば時間を無駄にしない方がいい、すぐ出発すれば昼過ぎの列車に間に合うから満帰に向かいなさいと勧めてくれた。そこに行けばすくなくとも村を見学することくらいはできる、ここで私とお茶を飲んでいるよりはいいはずでしょ、ということだった。

 満帰には夜8時くらいに着いた。車窓からは夜の森が広がっているのが見えていた。ロシアとの国境を越えて広がるこの森で、エヴェンキ人がトナカイを飼って暮らしているのだ。目的地のオルグヤ村は、汽車の駅から17㎞のところにあるということだった。すでに辺りは真っ暗だったが、私はヘッドライトをつけて夜道を行くことにした。気温はマイナス10度近くまで下がっていたが、35㎏ほどのザックを背負い、蒸留酒をあおりながら歩いたのでさほど寒さは感じなかった。しばらく歩くと、暗闇の向こうから人の声が聞こえてきた。近づいてみると、自転車を押して歩く3人の男の姿がぬっと現れた。満帰林業局にリストラされた元従業員で、森で木の実を拾って帰るところなのだという。煙草をくれないかと頼まれたが、持っていなかったので代わりに酒を差し出すと喜んで去っていった。

 3時間ほど歩き、日付が変わる前にオルグヤ村が見えてきた。ところが、村の名前を記した看板を通り過ぎてほっとしたところで急に犬が飛び出してきて、脚をがぶりとやられてしまった。酒の空き瓶で殴ろうとすると逃げていき、大した怪我を負うことはなかったが、びっくりさせられてしまった。

 村の通り沿いには平屋の人家や役所らしい建物が並んでいたが、どこも真っ暗だった。ホテルもなさそうでどうしようかと悩み始めた頃、2階建ての建物に明かりが灯った。駆けて行って大声で呼びかけてみると、窓が開いて「誰だ?」という男の声が返ってきた。調査に来た学生で杜局長の紹介状を持っていると答えると、「右側に入り口がある。今から開ける」と返事があった。扉から現れた男は警官の恰好をしていた。招き入れられた建物は村の派出所だったようで、奇遇なことにハソーというその若者は杜局長の弟だということだった。ちょうど当直で泊まり込んでいたのだという。その晩は当直室の片隅を借り、寝袋を広げさせてもらった。調査終了を間近にしてようやくフィールドワークらしい夜を迎えることができ、少し肩の荷が下りた気持ちで眠りについた。

 翌朝、ハソーが今日は非番だから付き添ってあげようと申し出てくれた。はるばる日本からやってきたにもかかわらず調査できるのは実質この1日だけだという話に同情してくれたようだった。朝食は彼の家でご馳走になり、午前中は村役場で資料収集と職員への聞き取りを行った。トナカイの袋布や毛皮を扱う会社“狩猟民公司”の社員からトナカイ放牧についての説明も受けた。午後はトナカイ牧畜に従事するエヴェンキ人の家を3軒訪問し、日常生活について聞くことができた。夜は再び派出所の当直室に戻り、役場で借りた統計資料を夜なべしてひたすらノートに書き写した*1

 満帰までの帰路は、ハソーがバイクで送ってくれた。別れ際には、かならず再び会いに来ると約束した。トナカイを見ることができなかったのも心残りだが、また戻ってくればいい。列車に揺られながら、そんなことを考えていた。エヴェンキ人の森での暮らしにも、草原とは違う魅力を感じていた。根河でバスに乗り換え、ハイラルに着いたのは次の日だった。

 ハイラルに到着し、杜局長を紹介してもらったお礼を伝えるためウラルトさんに電話をかけたところ、「あなたは学生ですよね。少しでも節約になるでしょうから、我が家に泊まりませんか」と思いがけない提案をいただいた。ウラルトさんとのご縁はこの時にはじまり、その後の5年間に跨るフィールド調査でも終始お世話になることになった。

 

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*1:当時、村にはコピー機もパソコンもなかった。紙も貴重で、資料が余っていなければ模写するのが普通だった。本連載の前半でも触れたが、学生時代には当たり前のように小説を書き写していたため、筆写が得意になっていたのかもしれない。

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