第40回 コラム④「学問と思想」

 大学院に進学してからというもの、日本語の力は目に見えて成長していった。アルバイトをクビにならないよう必死で会話力を身につけたときと同様、ハイペースで専門書を読みこなさねばならない授業についていこうと頑張るうちに読解力が磨かれたのだ。生来が怠け者の私にとっては、否応なく勉強せざるを得ない環境こそが成長の糧になるのだろう。妻の助けもあって経済的にも少しずつ余裕が生まれ、欲しい本を買うこともできるようになってきた。文化人類学の教科書や参考書、中国東北地方やシベリアに住む人々の民族誌や歴史文献、さらには同級生やアルバイト仲間から勧められた小説や娯楽雑誌まで、とにかく活字を読み漁る日が続いた。

 この頃に手に入れた本の多くは、いまでも大阪の自宅の書斎に並んでいる。今回のコラムでは、大学院時代に出会ったたくさんの本のなかから、私の考え方を大きく変えてくれた本を紹介してみたい。

 

『現代思想の冒険者たち』

 学術叢書などシリーズで出版されている本を揃えるには、相応のお金がかかる。それでも、テーマに沿って読み応えのある良書が厳選されていることが多く、大抵の場合は一時の出費以上に得られるものがあると思う。

 講談社から出版された『現代思想の冒険者たち』もその例に漏れず、たくさんの学びを残してくれた。大学院時代の私は、ちょうどその頃から出版されていたこのシリーズのファンで、1冊ごとに楽しんで読み進めているうち、いつのまにか全30冊を手元に揃えていた。現代の社会科学の基礎をつくってきた偉人たちを各巻1人ないし数人ずつとりあげ、その思想を分かりやすくかつ丁寧に解説してくれる内容の本だった。書店にずらりと並ぶこのシリーズのなかから最初に手にとったのは、第20巻『レヴィ=ストロース』と第26巻の『ミシェル・フーコー』だったと記憶している。前者はもっとも著名な人類学者の1人だったからで、後者のミシェル・フーコーはどうやら人類学者ではなさそうだったが、大学院に進学してから授業や議論の場でしばしば登場する名前だったので、気になって買ってみたのだ。どちらも初学者の私でも無理なくついていけるほど読みやすかったが、内容は十二分に手ごたえのあるものだった。

 大学院の授業では英語も含めてさまざまな論文や学術書を輪読していたが、私はとくに理論的な部分でつまずいてしまい、きちんと議論に参加できないことがままあった。レヴィ=ストロースやフーコー、デリダ、ドゥルーズ、ブルデューなど学問の垣根を越えて広く知られる研究者たちの思想をある程度理解しておかなくては、人類学的な民族誌を読むにあたっても理解が不十分になってしまう。修士課程も2年目に入る頃には、現代思想と呼ばれるそうした知的潮流を押さえておく必要を感じていた。『現代思想の冒険者たち』シリーズに出会ったのはちょうどそうした時期で、研究者としての基礎体力を養うのに大いに役立ってくれたのだった。正直なところ、1冊2,600円、30冊ひと揃いで約8万円という値段は懐具合が寂しかった当時の私には結構な痛手だったのだが、日本の第一線で活躍してきた研究者たちの手による良書を通じて偉大な思想家たちに触れられたことは、とても幸運だったのだと思う。

 

岩波講座シリーズ

 1997年より出版された岩波講座『開発と文化』も、出会えてよかったと思える叢書の1つだ。その名の通り開発と文化をテーマとして、川田順三や岩井克人をはじめとして、分野を横断して集まった当代一流の研究者が手がけた本が収められていた。1巻目の序章「いま、なぜ『開発と文化』なのか」を読んだときの感動は、とりわけ印象深く覚えている。開発現象を支えるさまざまな言説は、近代西洋を中心に形成されてきた価値観にもとづいてつくられてきた。しかし、地球上のどこであっても開発する側の声は大きく、開発される側に立つ人々の声はか細い。そうした状況を変えていくにはどうすればよいのか――。熱量ある主張と洗練された議論の展開の双方に興奮させられ、ほとんどすべてのページにわたってびっしりと書き込みをしていた*1

 同じく岩波講座の『文化人類学』もまた、自信をもってお薦めすることができるシリーズである。大学院で指導を仰いでいた鹿野先生、中林先生が『紛争と運動』と題する第6巻に論文をお寄せになっていたことから読み始めたのだが、『環境の人類誌』、『異文化の共存』、『思想化される周辺世界』など当時の人類学における先端的な領域を幅広く網羅したテーマ設定に魅せられ、結局は全巻を揃えることになっていた。第12巻『思想化される周辺世界』では、政治的、経済的な権力構造において劣位に置かれた地域が、「周辺世界」とみなされることによって蔑視とロマン主義的な期待の双方を背負わされてきたことが論じられており、現実ではなく言説として世界を捉える視点を学んだ。第2巻『環境の人類誌』からは、有史以来続く広義の開発現象が引き起こす環境変化が人類の文化や生活を大きく左右してきたことを知った。また、この巻に収録されていた論文を通じて、北欧に住むサーミ人のトナカイ牧畜について研究をされている葛野浩昭先生の民族誌『トナカイの社会誌――北緯70度の放牧者たち』(河合出版、1990年)という素晴らしい本に出合うきっかけも得た*2

 

発想の転換

 社会科学を本格的に学びはじめた大学院時代の読書経験は、新たな知識を吸収する単純な楽しさに終始していたわけではない。それまで当たり前だと思っていた考え方を根本から覆す問いに直面し、ときに苦痛を感じながら本と格闘する経験でもあった。

 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体――ショナリズムの起源と流行』(白石隆・白石さや訳、リブロポート、1987年)は、「国家」や「民族」をめぐる捉え方を大きく変えてくれた1冊である。たとえば、それまでの私にとってモンゴルという民族は起源を問うまでもなくあたりまえに存在し、私自身がその一員であることを疑ったこともなかった。しかし、アンダーソンはネーション(国民・民族)とは歴史的な過程のなかで生じた枠組みであって、想像された共同体なのだと論じている。近代化とともに人々を結びつけていた地縁や血縁、あるいは宗教や階級の意識が薄らいでいくなかで、印刷技術や教育のシステムを武器にその隙間を埋めるようにして登場したのがナショナリズムに代表されるような新たな同胞意識なのだというのだ。私自身のアイデンティティをも揺さぶる発想には衝撃を受けたが、草原から街に移り住んでから文字を知り、学校教育を受けるようになった過去を振り返れば、どこか納得できる部分もあった。

 「歴史」についても、学問を続けるなかで考え方を問い直さねばならなかった。それまでの私にとって、歴史とは過去に生じた事実にほかならなかった。振り返ってみれば、日本にくる以前にもE.H.カーの『歴史とは何か』を読み、一時は歴史を描くことの権力性について気づきかけたことがあったのかもしれないが、頭が混乱するのが嫌で無意識のうちに考えを深めることなくやり過ごしてしまっていたのだろう。しかし、大学院の授業を受けるなかで、そうした安易な理解に甘んじていては議論についていけないことが分かってきた。

 フェルナン・ブローデルの『地中海』(浜名優美訳、藤原書店、1991-1995年)は、こうした歴史にまつわる問いをあらためて突きつけた1冊だった。全5巻からなる大著のなかに、私が考えていたような政治を中心とする歴史はほとんど登場しなかった。むしろブローデルは、16世紀の地中海沿岸に暮らす人々の日常を想像するところから着手し、その背景にある当時の世界の状況を歴史として描いているようだった。文学的ともいえる美しい文章に惹き込まれてこの作品に没頭するなかで、私は歴史というものが人々の生活のなかで生まれてきたのだということを理解したように思う。

 政治の世界の大きな動きではなく、ある時代、ある地域で営まれていた暮らしそのものに焦点を当てる手法は、アナール学派と呼ばれる歴史学の潮流のなかで育まれたのだということも知った。アナール学派という言葉を手掛かりに研究室の書庫を探してみると、エマニュエル・ル・ロワ・ラデュリ『モンタイユー――ピレネーの村1294~1324』(井上幸治・渡辺昌美・波木居純一訳、刀水書房、1990-1991年、上下2巻)、アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史――ある木靴職人の世界 1798-1876』(渡辺響子訳、藤原書店、1999年)などが所蔵されていた。決して歴史の表舞台には登場しなかった人々が生きた風景を描こうとするそれらの作品は、事実を確定することよりもずっと豊かな学問的営為があることを教えてくれたのだった。

 

 

*1:書き込みの量が多く傍線とメモが入り混じって見にくくなってしまったため、思案してこのときから蛍光マーカーを使うようになった。読書のスタイルを変えてくれたという意味でも記憶に残る文章だった。

*2:このほか、第6巻『紛争と運動』に「未開の戦争、現代の戦争」という論文を寄稿されていた栗本英世先生とは、のちに大阪大学に赴任してから共同研究プロジェクトをご一緒させていただくことになる。岩波講座『文化人類学』シリーズは、日本の文化人類学界の第一線で活躍する学者の研究を具体的に知るきっかけも与えてくれた。

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