第42回 「論文を書くこと、自分と闘うこと②」

エヴェンキ人とは誰か、民族とは何なのか

 なんとか2年間で修士課程を卒業し、1998年の春からは博士課程に進学することになった。進学先に迷うことはなく、文化人類学と出会うきっかけを与えてくれた金沢大学文化人類学研究室を志望した。

 修士論文をまとめる過程ではフィールドワークがまだまだ不十分だったということを実感させられていたため、博士課程に入ってすぐの夏休みには再び大興安嶺へ調査に赴いた。調査中にお世話になった人たちに修士論文が無事完成したことをきちんと報告し、内容を伝えたいという気持ちもあった。

 1年ぶりに訪れたオルグヤ村では、バラジェイさん、ゲリンスカさん、ウェジャ、コウサンなど懐かしい顔ぶれが迎えてくれた。しばらくすると私が修士論文を書いたことが噂になったらしく、周辺のキャンプ地からも次々と人がやってきては何を書いたのか聞かせてくれとせがまれるようになった。現地の人たちの意見を聞こうと思っていた私にとっては願ってもないことで、毎日そうした人たちと議論を交わしているうちに、修士論文の問題点もはっきりと浮かび上がってきた。

 それまでの私はトナカイ放牧がエヴェンキ人の生活と文化の基盤にあると考え、修士論文でも、トナカイを飼育している人々を「トナカイエヴェンキ人」と呼んで焦点を当てた。しかし、実際には街での賃労働や政府機関に勤める人が増えており、トナカイを育てたことのないエヴェンキ人も大勢いるのだった。またダフール人や漢人などとの通婚も進んでおり、村やキャンプ地に複数の民族が暮らすことも稀ではなかった。そうした生業の変化や複雑な民族構成などについて意識しないわけではなかったが、修士論文では簡略な説明を加えただけで、そのことの現実的な意味を掘り下げることはできなかった。

 「民族」についての私の理解は、漢人がつくった社会のなかで暮らし始めたことで形成されたのだろうと思う。ウマやヒツジを飼って暮らすのがモンゴル人で、街で暮らすのが漢人。漢人の側からみたそうしたステレオタイプを、知らず知らずのうちに私も身につけていた。モンゴル人を十把一絡げに捉えるまなざしを受けることに嫌気がさすことは多かったはずなのだが、いつのまにか私自身もそうした分類に慣れてしまい、エヴェンキ人はトナカイを飼って暮す人たちだというステレオタイプを研究に持ち込んでしまっていたのかもしれない。

 このときオルグヤ村で議論を交わした人たちのなかには、すでにトナカイを手放した、あるいはトナカイを飼ったことのないエヴェンキ人や、民族分類の上ではエヴェンキ人ではない人も多かった。「外来戸(移民家庭)」や「団結戸(異なる民族の通婚家庭)」など、民族や地域の境界を越えて生活を営む人たちの存在に気づけたことも大きな収穫だった。エヴェンキ人とは誰なのか、民族とは何なのか――。修士論文では正面から見つめることができなかった大きな問いを突き付けられた気がした。

 この年の夏は100年ぶりといわれたほど雨が多く、大興安嶺周辺の各地で洪水が発生していた。私は40日間の調査を予定していたが、調査に関する手続きや手配を引き受けてくださっていたウラルトさんから安全確保のため至急ハイラルに戻るよう連絡があり、わずか1週間でオルグヤ村を去らねばならなくなってしまった。私の身を心配してわざわざ迎えに来てくれたウラルトさん夫婦の車に乗り込みながら、いつかは思う存分長期間のフィールドワークがしたいと思っていた。

 

大洪水がもたらしたもの

 この年の大雨は、大興安嶺だけでなく中国の全土に大きな被害をもたらした。2億人以上が洪水や生活インフラの断絶など何らかのかたちで被災し、685万軒以上の建物が倒壊し、死者も4,000人以上にのぼったとされる。このことは世界中のメディアから注目され、大雨の被害が拡大した背景には中国で深刻化していた生態環境の悪化があり、森林伐採や鉱山開発、無計画な農地拡大や都市建設などによる人災の側面があるということがしきりに報道された。中国政府はこうした批判にいち早く対応し、農地や放牧地を森林や草原に還そうというプロジェクトを中心に、環境保護政策を強く打ち出すようになっていった。

 オルグヤ村をあとにした私は、ウラルトさんのご自宅に寝泊まりさせてもらいながら、ハイラル周辺に住むエヴェンキ人の家庭を訪問して聞き取り調査を行っていた。ウラルトさんは、新聞やテレビで洪水に関するニュースを熱心に調べては、各地の被害に心を痛めているようだった。ウラルトさんは、政府がようやく本格的に環境保護に取り組み始めたことを評価しつつも、それはわずかな前進でしかなく、根本的な転換ではないという。「自然は支配することができる」という考えを人類が捨てない限り、自然と人間の衝突は終わらないだろうというのだった。

 私が帰国するまでのひと月足らずの間に、ウラルトさんは環境問題に関するエッセイを5篇も書きあげていた。はじめの2篇は近代的な思考や中国人の土地に関する観念や利用法を批判的に捉えるもので、のこりの3編はエヴェンキ人と自然の密接な関係を描くものだった。彼は、自然に対して傲慢な態度をとる人間は近代という時代の主流を占める社会に生まれ、いまではエヴェンキ人のようなマイノリティのなかにも現れつつあるという。

 ウラルトさんがトナカイ放牧をしていた1970年代には、キャンプ地は頻繁に移動を繰り返していた。重い荷物を背負って森のなかを歩きまわるのは大変なことだったが、下敷きになった植物を死なせる前にテントをどかさねばならないし、トナカイが齧ってキャンプ地周辺の樹々を枯らしてしまう前に引っ越しをしなければならないと考えていたからだった。しかし、現在では2か月も3か月もキャンプを動かさないことも珍しくなく、ようやく移動するときにも、カラマツやシラカバの根を平気な顔で踏みつぶして歩く若者が増えているのだという。

 トナカイも樹木も、人間と同じく主体を持った存在である。それどころか、動物や植物が自然の神が定めた掟に忠実に生きながら人間を支えているのに、人間はといえば誠実さを失い、嘘をついたり無駄に生きものを傷つけたりするようになってしまった。エヴェンキ人のシャーマンは「謙虚に生きること、それはエヴェンキ人が森で生き続ける唯一の残された道なのだ」と人々を諭してきたが、耳を貸す者はもはやいなくなってしまった。

 私はウラルトさんの文章を読み、話を聞いて、エヴェンキ人と自然とのかかわりが、仕事や結婚といった具体的な暮らしぶりだけでなく、より深い内面的な部分でも変わりつつあるのだということに気づかされた。

 かつて私は、ウラルトさんの「シャーマン」という短編小説を読んだことがあった。大興安嶺の奥地まで押し寄せる近代化の波を前に、エヴェンキ人最後のシャーマンはクマに殺され、その餌になろうとする。しかし、クマは観光客の安全を確保するというそれだけの理由で警察によって容赦なく狩られ、シャーマンはいつまでもクマを待ち続ける。シャーマンは絶望のなかで自然の神に祈り続けた。ある日、観光客でにぎわうキャンプ地に突風が吹き、シャーマンの笑い声が響き渡ったのを最後に、彼もクマも姿を消したのだった。

 はじめてこの小説を読んだときには神秘的な筆致が印象に残る程度だったが、ウラルトさんとひと夏をともにするなかで、私はこのシャーマンがまさに全身全霊をもって訴えようとしたことを少しだけ了解できた。それを明確な言葉にすることはできそうにないが、人間にとって「文明」へと向かうことが唯一の道ではないこと、そしてその道を歩むことで奪われてしまう何かがあることを、このときはじめて感じることができたのだった。

 9月中旬、ハイラルではすでに秋も深まり、北京へと向かう列車の窓から望む大興安嶺の山なみは紅く染まっていた。トナカイ放牧についての観察はほとんど捗らなかったが、それにもまして大切なことを学ぶことができ、後悔は微塵もなかった。

 

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