第43回 「森と草原を書く」  

夢と現実

 大興安嶺での調査から帰国し、半月ほどが経った頃だったと思う。ある夜、祖父の夢を見た。祖父と私はモットオブルジェー(森にある冬のキャンプ地)にいた。初夏を思わせる日差しと風のもと、祖父はアルグ(牛糞を拾うための道具)をつくるための素材となる柳の枝を探し、私はすばしっこく逃げ回るニャクトル(うずら)の雛を追いかけていた。ニャクトルの羽毛は砂漠と同じ色で、一度見失ってしまうと再び見つけるのは難しい。シャブグ(マメ科の種物)の根元近くに隠れている一羽の雛から目を離さず凝視していると、祖父から「見るだけにしなさい、触ってはダメだよ」と声をかけられた。よく観察してみれば、雛は怯えるように震えていた。その姿を見てなぜだか怖くなり、私は祖父のもとに走って逃げた。

 目が覚めて少し気が落ち着いてから、ふと長いあいだ故郷のことを忘れていたのかもしれないと気づいた。祖父はときどき夢に現れては、コンシャンダック沙漠の懐かしい風景を思い出させてくれるのだった。ようやく覚醒して現実へと引き戻されていくのを感じながら、そういえばウラルトさんの短編小説『シャーマン』を読み終えたときにも同じような感覚を味わったなということをぼんやりと思い出していた。

 ウラルトさんは、この小説はフィクションではあるが、あるエヴェンキ人のハンターが語った夢の話が下敷きになっているのだと教えてくれた。1980年代半ば、ウラルトさんはあるハンターとヘラジカ猟に出かけた。1週間ほども獲物を追って森を歩き回ったが、見つけることができたのは小さな鳥だけだった。手ぶらのままキャンプ地に戻った翌日、ハンターはウラルトさんに、クマに食べられる夢を見たと打ち明けた。ウラルトさんはその話を聞いて、動物のいない森を歩き回ったことが、彼に死を連想させる夢をみさせたのだと直感したのだという。さらに、その夢はハンターの心を映しているだけではなく、そこに棲む動物を失って死へと向かう森の叫びを表しているのではないか。ウラルトさんはそう考え、自然とともに生き、死んでゆこうとするシャーマンの物語を書くことにしたのだった。

 

ウラルトさんの文学

 ウラルトさんの父はオルグヤ地域で人望の厚かった人だったが、文化大革命の時期には政治的糾弾を受けてしまう。その影響でウラルトさんは中学校を中退させられ、10代半ばから20歳過ぎまでの青春時代を、オルグヤ一帯でトナカイ放牧と狩猟をして暮らすことになった。現代の「焚書坑儒」が中国を襲った時代にありながら、文学を愛していたウラルトさんは親戚や友人に頼み込んだり、街に出た折に紙ごみの回収所を見てまわったりと、能う限りの手段を使って本を集めた。ウラルトさんはそうして集めた数百冊の本を焚火や月明りのもとで読み、キャンプ地を移動する度にトナカイのエサを運ぶための麻袋に入れて持ち運んだという。

 やがてウラルトさんは独学で小説を書く手習いを身につけ、机などないキャンプ地で放牧を営みながらたくさんの作品を書き溜めていった。やがて文化大革命が終わると次々に作品を発表し、1981年の「漁師のお願い(一个猎人的恳请)」を皮切りに、「七つ枝の角をもつ牡鹿(七叉犄角的公鹿)」、「琥珀色のかがり火(琥珀色的篝火)」と3年連続で全国最優秀短編小説賞を受賞していったのだった。ウラルトさんはその偉業について、大興安嶺の自然のなかで世界の文学作品と対話するなかで養われた「空想」する力をもとに、エヴェンキ人の生き方を忠実に描いただけなのだと語る。実際に、ウラルトさんの小説は文壇で高く評価されただけでなく、ハンターたちからも厚い支持を受けている。作家として天賦の才に恵まれていたことは間違いないが、放牧と狩猟をして暮らした経験がなければ、そうした作品を残すことはできなかっただろうと思う。

 その後ウラルトさんは、少数民族出身の作家としてはじめて中国作家連盟協会の事務局長に選ばれるなど文学の世界で脚光を浴び、一時は北京で暮らすようになった。しかし、すぐに大興安嶺の自然とそこに住むエヴェンキ人の暮らしから離れたところでものを書くことはできないという理由で文壇から身を引き、ハイラルへと戻ってしまったのだった。

 

民族と文学

 それまでの私は、モンゴル文学とはモンゴル語で書かれたものだけだと言ってはばからず、中国語の翻訳版にはほとんど食指を動かさなかった。どこまでも続く草原の美しさや冬の厳しさを、言語の壁を越えて表現できるとは思えなかったからだった。しかしウラルトさんと交流が深まるなかで、つまらない自負にこだわって翻訳を毛嫌いするのは間違いだったのかもしれないと思うようになった。ウラルトさんは、ほとんどの作品を中国語で書きながらも、大興安嶺の自然の美しさと、エヴェンキ人の思想や信仰の奥深さを見事に表現していたからだった。

 それ以降、私はモンゴルについて書かれた中国語の文学作品を積極的に読むようになった。とりわけ、文化大革命時代の「下放運動(知識人を地方へと送って生活させた政策)」にしたがってモンゴルで暮らした人たちが書いた数々の作品は、他者の視点に立ちながらも謙虚に遊牧民の世界を描いていた。社会主義や都市化の波に揉まれながらも自然のつながりを失うまいとする遊牧民の姿を描いた張承志の『黒駿馬』、開発の名を借りて自然を破壊してきたことを反省的に捉え、遊牧民の知恵に学ぶことを提唱する姜戎の『神なるオオカミ(狼図騰)』などは、中国の主流社会にも少数民族の文化を尊重しようとする姿勢が育ちつつあることを教えてくれた。

 シリンゴル盟に「下放」された経験を持つ馬波の『老鬼』では、最後のくだりで次のような告白がなされていた。――草原よ、ごめんなさい。私たちは政治に支配されるまま、農地開拓や工業建設のために母なる草原を傷つけてしまった。私たちは環境破壊に青春時代を費やし、傷だらけの身体と精神で、罪深い気持ちのまま母なる草原に別れを告げたのです――。

 異郷から私の故郷へとやってきて青春時代を過ごした人びとが、草原での暮らしをもとに思考を深め、文学として表現してきたのだった。そこでは、モンゴルを舞台としながらも、モンゴル人の私にはなかった視点と解釈が生まれているようだった。土足で私たちの領域に踏み込んでくれるなという苛立ちと、すべてを分かち合いたいという連帯感。そうした作品に触れる度に、ともに相反する情動が沸きあがるのを感じていた。

 

参考文献:
ウロルト(牧田英二訳)『琥珀色のかがり火 (新しい中国文学)』早稲田大学出版部、1993年。
張承志(岸陽子訳)『黒駿馬 (新しい中国文学)』 早稲田大学出版部、1994年。
姜戎(唐亜明・関野喜久子訳)『神なるオオカミ〈上・下〉』講談社、2007年。
馬波(和田武司・多田佳子訳)『老鬼(ラオクイ)―わが青春の文化大革命〈上・下〉』集英社、1996年。

 

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