第44回 「目指すべき研究者像」

目指すべき研究者像

 金沢大学人類学研究室では、鹿野先生をはじめとして鏡味先生、中林先生など研究にも教育にも熱心な教員が教鞭をとっておられたが、私が関心を寄せていた北方アジアを専門に研究されていた先生はいらっしゃらなかった。このため、文献収集や調査の方法論についてはきめ細かく指導していただいたが、それを中国東北地方やシベリアで具体的にどのように進めるのかという実践的な部分は、自分で試行錯誤しながら身につけていくほかなかった。また、先行研究の動向を整理した上で新たな知見を加えていくという学術論文の作法は教えていただいたが、調査を通じて見聞きしてきたことをどのように生かせばよいのかについては、やはり悩むことも多かった。

 そうしたなか、夏休みないし冬休みに開講されていた集中講義からは、その都度自分なりの研究のスタイルを模索するためのヒントを得ることができた。金沢大学の集中講義では、毎回1人ずつ人類学界の第一線で活躍する研究者を招聘し、それぞれ1週間ほどの連続講義を行っていただいていた。自分の調査と日程が重なってしまい参加できない年もあったが、修士から博士までの5年間、集中講義を通じて実にさまざまなテーマや地域を研究する先生方に出会い、人類学の幅広さに触れることで、目指すべき研究者像をじっくりと見定めることができたように思う。

 

集中講義

 修士1年目の夏休み、私にとってはじめての集中講義は、オセアニアの島嶼地域を研究する山本真鳥先生*1が担当されていた。授業では、人類学的なフィールドワークの生みの親ともいわれるB.マリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者たち』、学校教育のあり方を反省的に問うてアメリカでベストセラーを記録したM.ミードの『サモアの思春期』など人類学の古典的な作品をじっくりと解説したうえで、マリノフスキーの人生を描いた伝記映像も紹介してくださった。マリノフスキーやミードの研究成果をめぐっては、その内容の妥当性をめぐる議論がその後何十年にもわたって続いてきた。しかし、それらが人類学の礎を築いた偉大な業績であることに違いはなく、すぐれた民族誌として長く読み継がれているのだという。私は、山本先生ご自身のフィールドワーク経験も交えつつ進められる講義を受けるなかで、人類学とは多分に経験的な側面をもち、かならずしも「客観的」あるいは「正しい」事実を追求することが目指されているわけではないということを学んだ。大興安嶺でのごく限られた交流をもとに修士論文を書くことに躊躇を感じ、エヴェンキ人について「間違った」ことを書いてしまうのではと不安を前に戸惑っていた私は、批判を覚悟の上で自分の眼と心を信じるしかないのだということを知ったのだった。

 2年目の夏休みには、中国雲南省に住むペー族(白族)を研究されている横山廣子先生が集中講義のため金沢大学に来られた。大興安嶺でのフィールドワークも予定していたが、地域は異なれど中国の少数民族を研究される先生の講義とあって、調査日程を調整して聴講することにした。その甲斐あってか、横山先生の講義も私にとっては実に学びの多いものになった。まず驚いたのは、私が留学生だと知って声をかけてくれた横山先生が、とても流暢な中国語を話されていたことだった。さらに詳しく聞けば、中国語だけでなくペー族の言葉も話すことができるという。人類学者は現地の言葉で調査を行うということは知っていたが、想像以上に高いレベルでの言語習得が必要なのだということを実感させられたのだった。

 また、ご自身が調査された地域のことを紹介されるだけでなく、地図や歴史文献、統計、さらに文学作品など豊富な資料を駆使しつつ、中国の少数民族について広く解説してくださったことも印象的だった。横山先生はペー族について紹介するにあたっても、ペー族の史資料や調査で観察した事例だけに立脚するのではなく、さまざまな民族が相互にかかわりあいながら歴史が紡がれ、文化やアイデンティティが築かれてきたことに注意を払っておられた。それまでの私は、モンゴル人やエヴェンキ人の生活やアイデンティティの変化を「漢化」として考えていたが、主流社会と少数民族の二項対立的な関係だけでなく、少数民族同士の動態的なかかわりも視野に入れなければ片手落ちになるということに気づかされた。中国では少数民族社会の変化を進化論的な視点から捉え、エンゲルスが描いた発展段階図式に従って把握するのが一般的だったことからか、少数民族が直面する課題を単純化してしまう癖がついていたのかもしれない。

 博士課程に入ってから受講した集中講義のなかでは、シベリアのユカギール人やエヴェンキ人について紹介してくださった佐々木史郎先生の授業からとくに大きな影響を受けた。エヴェンキ人について修士論文を書いた身でありながら、当時の私はロシアに住むエヴェンキ人についてはほとんど無知同然だった。ロシアといえば中国の東北地方を脅かし続けてきた「侵略者」というイメージが強く、無意識のうちに国境を越えたつながりを直視できなかったのかもしれない。

 佐々木先生の講義では、帝国時代のツァーリ(皇帝)がヨーロッパの学者を雇用して広大な領土のいたるところで実地調査を行わせ、膨大な歴史的、民族誌的資料を残してきたということを学び、ロシア語の文献をほとんど扱わずに書いた修士論文が大きな欠点を抱えていることも知った。また、修士論文では中国語の文献を多用していたため、どうしても「中華」を中心に置いた歴史観が拭い切れなかったが、ヨーロッパの視点、さらにはシベリアを中心に据えた視点からエヴェンキ人を考えるという発想を得たようにも思う。

 また、佐々木先生の授業ではユカギール人のヘラジカ狩猟を追ったNHKのドキュメンタリー番組を視聴した。先生ご自身が制作に協力されたとのことで、映像では語られない背景も含めて詳しく解説をしてくださり、私にとってはシベリアに生きる人々の暮らしを具体的に知るきっかけになった。狩猟を営む人々は動物に対して優位に立ち、自然に立ち向かう術を磨き、大切にしているのだろうと想像していたが、ユカギール人は動物を狩ることよりも、むしろ儀礼を通じて狩った獲物の身体を、仲間たち、そして神や精霊たちと分かち合うことにこそ重きを置いているように感じた。ユカギール人の狩猟にまつわる感性は、モンゴル人や大興安嶺でトナカイ放牧を営むエヴェンキ人のそれとも通ずるのではないか。ぼんやりとではあるがそう考えた私は、いつかシベリアの大地で狩猟を営む人々に会ってみたいと思うようになっていった。

 鈴木紀先生が担当された開発をテーマとした集中講義でも、はっとさせられる学びを得た。先進的な技術や豊かな暮らし、公正な社会制度があらゆる地域で達成されるべき目標とされ、持つ側が大手を振って持たざる側の生き方に介入するようになったのは、実は「開発」という言葉が世界の隅々に浸透していってからのことだったのだという。鬱蒼とした昏さに塗り込められた森に豊かさへと至る1本の道を拓く、そういったイメージとともに「開発」が語られるようになることで、人類が歩むべき道が定まってしまった。拓かれた道ではなく樹々の下を行こうとすることは、困難なだけでなく間違った選択なのだとされてしまうのだ。

 現代という時代の本質を見抜く発想に触れ、私はひたすらに「文明」に向けて歩んできた自分の過去を振り返らざるを得なかった。ときに左右を見回すことはあったかもしれないが、私はそれでも「文明」への道を踏み外すことを怖れ、足を止めることはできなかった。モンゴル人やエヴェンキ人が、そして私自身が「漢化」していくことに苛立ちながら、「発展」のためには仕方のないことだと言い聞かせてきた。鈴木先生の講義は、いつからか私自身のなかにも深く根を下ろしていた近代主義と正面から向き合うきっかけを与えてくれた。

 

 

*1:弘文堂スクエアで「オセアニアの今」を連載中。

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.