第51回 「シベリアへ③」

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ロシア語の先生たち

 連載第49回でも触れたが、クラスノヤルスク大学では留学生としてロシア語を学ぶ傍ら、日本語と中国語の授業で教壇に立つ仕事も引き受けることになった。はじめは勉強時間が削られるし煩わしいなと思っていたが、学生に語学を教えるなかでロシア語文法の特徴に気づくこともあったし、教員の立場についたことで得られたものも大きかった。

 グルナーラ、オルガ、カーチャの3人は私より若く当時20代の女性で、それぞれ1対1形式でロシア語の授業を受け持ってくれた先生だったが、やがて私が教壇に立つようになったことで同僚になり、最後にはよき友人になれたと思っている。ソ連崩壊の余波も拭い切れていなかった当時、クラスノヤルスクの人たちの生活はけっして豊かではなかった。最初にホームステイさせていただいていたリリヤさんは「大学の教員やスタッフは最貧困層」だと言っていたが、グルナーラたちもその例に漏れず、家庭教師や通訳などと兼業しながらなんとか生計を立てているのだという。

 まだ若い彼女たちは教師としての経験も浅いはずだったが、授業では常に厳しい姿勢を崩さなかった。グルナーラの授業では毎週小テストがあったし、オルガは質問に答えられないと怖い顔で詰め寄り、カーチャは私が教科書の例文を8割以上暗記するまで居残り勉強をさせられた。ただ厳しいだけでなく、生徒の力を引き出すために先生も真剣になっているということが伝わってくる授業だった。それだけでなく、毎月の終わりに私の努力がしっかり認められれば彼女たちが手料理を振舞ってくれ、成績が芳しくないと私がレストランでご馳走しなければならないという、私の酒好きをうまく利用したイベントまで考えてくれた。

 彼女たちの献身的な授業のおかげで、ちょうど冬の寒さが日ごと緩むのに歩調を合わせるように、私はロシア語の力が身についていくのを実感していた。チェーホフやプーシキンの小説、さらにはエヴェンキ人に関する記事や論文も少しずつ読みこなせるようになり、ずっと抱えていたロシア語コンプレックスもいつのまにか消えていた。

 日本へ戻る時期が迫ると、彼女たちは協力して12ページにもなる最終試験を作成し、合格しないと帰さないと言った。文法、発音、読解、じつに3時間半もかけてひとつひとつ噛みしめるように問題を解きながら、私の胸は感謝で一杯だった。

 

学会発表

 2006年の春、クラスノヤルスク国立師範大学で東洋史を教えていたツィシュン先生から、ロシア連邦歴史学会で発表してみないかと声をかけていただいた。発表言語はロシア語だった。わずか3週間ほどの準備期間しかなかったが、思い切って挑戦してみようと引き受けることにした。

 会期の1週間前までには草稿を用意し、グルナーラさんたちのネイティブチェックを受けて臨もうと考えていたが、見込みが甘く当初の計画は見事に頓挫してしまった。ふたを開けてみれば草稿が仕上がったのが本番の2日前、グルナーラさんから原稿が返ってきたのはわずか2時間前だった。

 1度だけ発表原稿に目を通し、焦る気持ちをどうにか抑えて壇上に立つと、会場の座席は50~60人の聴衆で埋まっている。私がはっきり覚えているのはそこまでで、結局のところ原稿を読んだのかアドリブで話したのか、25分の発表の記憶はほとんど残っていない。金沢大学の入学試験以来、もっとも緊張した瞬間だった。

 数年後にダツィシュン先生から会場の人たちは9割がたの内容は理解できていただろうと聞かされ、期待以上によくやったと励ましてくれたのだが、100%を伝えきれなかったのが悔しかった。それからは、人前に立つときには自信をもって話ができるまで準備し、壇上ではできるだけ分かりやすく伝わるよう言葉を選ぶよう心がけるようにしている。未熟なまま舞台に立った経験は苦い思い出でもあるが、少しだけ自分を変えるきっかけにもなった。

 

ロシア語でフィールド調査

 クラスノヤルスクに来て1年が経つ頃には、作家のネムトシキン、歴史博物館で働くアンナ、近所のスーパーでアルバイトをしていたアンデレなど、クラスノヤルスク在住のエヴェンキ人の知り合いは少しずつ増えていた。しかし、ツンドラの森林でトナカイを飼うエヴェンキ人を調査してみたいという希望は実現していなかった。

 シベリアの大地は広く、移動しながら暮らすエヴェンキ人に会うためにはヘリコプターをチャーターしなければならなかったが、手持ちのお金だけでは難しい。ドイツの博物館からの依頼で資料を収集する仕事をコツコツしていたのだが、夏休みを前にしてまとまったアルバイト代をもらえることになった。ようやく念願かなっての調査旅行ができる。限られた資金で移動や滞在にかかる費用を工面でき、かつ研究の面でも意義のある調査ができるところを慎重に探し、エヴェンキ人の生活についての情報がほとんど知られていないタイムイル半島に行ってみることに決めた。

 クラスノヤルスクから、まずは航空路線が通じているハタンガという街に3時間半ほどかけて飛ぶ。上空から見下ろす大地は緑の森と銀色に光を反射する河で埋め尽くされ、目につくような街はほとんどない。ずっと小さな窓に顔を寄せていたため、ハタンガに降りると首がしくしく痛んだ。

 ハタンガでトナカイを飼うエヴェンキ人の所在についての情報を集めてヘリコプターでそこに向かうつもりだったが、なんとここにはヘリコプターが1台もないという。いったんは途方に暮れてしまったが、そこで知り合った中国語を勉強する学生たちが助け舟を出してくれ、ノリリスクという街のヘリコプターを呼んでチャーターできることになった。

 トナカイを飼うエヴェンキ人が暮らすというコトゥイ川流域へと飛ぶが、放牧地の正確な場所は分からない。ひとまず見晴らしのよい丘で降ろしてもらい、そこからは徒歩で探し回ることにした。食料は1週間分ほど持参していたし、ワロージャという名のパイロットから双眼鏡と無線も借りた。

 川に沿って歩いていれば、どこかで人に出会えるだろう。はじめは気楽に歩き始めたが、無数の支流や池塘が行く手を阻み、なかなか距離が稼げない。ちょうど子育ての時期なのか、水鳥たちの甲高い鳴き声がうるさく耳に響く。まるで柱のように固まって飛ぶブヨやハエも煩わしく、思っていた以上に大変な行軍になってきた。

 気づけば時計の針は夜の11時を指していたが、まだ空は明るい。灌木が生い茂る丘の上にテントを張って寝転ぶとどっと疲れが押し寄せ、はじめての白夜を堪能する間もなく眠りに落ちてしまった。どれくらい眠ったのか、トナカイの鼻息が聞こえて目が覚めた。なんと、幸運にもエヴェンキ人が放牧するトナカイの群れに出会えたのだった。

 2世帯、7人でおよそ600頭を飼う彼らは、ヤクート共和国のオレニョク川流域から来たのだという。アナバル高原を横断してコトゥイ川流域にやってきてトナカイを放牧し、これから1か月半ほどかけてオレニョク川方面へと帰るのだという。彼らにとってツンドラの森と錯綜する河の流れはひとつづきであり、トナカイを生かすための移動が国境によって阻まれることもない。

 ロシア語とエヴェンキ語を交えながらトナカイを飼って生きる暮らしを語ってもらいながら、彼らとは10日間を一緒に過ごした。オレニョク川までついて行けるものなら、そうしたかった。極北の大地、そしてそこに生きるエヴェンキ人の大きさと広さに、私は心底惚れ切っていた。

 それから10年を経て、NHKスペシャル『人類誕生』の撮影に同行した折に、オレニョク川流域の彼らの村を訪れる機会があった。彼らはやはりツンドラの大地へと放牧に出ていた。村は美しく、眩しかった。

 

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