第54回 水俣と出会い、自分が変わる

水俣との出会い

 クラスノヤルスクでの留学を終えてすぐ、2007年1月から大阪大学工学研究科サステイナビリティ・サイエンス研究機構(現在のサステイナビリティ・デザイン・センター)の特任研究員として働くことになった。「サステイナビリティと人間の安全保障」をテーマとする学際的プロジェクトに、人類学の立場から参加することが主な業務だった。

 着任して2か月ほど経った頃、プロジェクト業務の一環で、大阪大学人間科学研究科の草郷孝好先生、峯陽一先生のほか、JICA大阪(当時)職員の方々に同行し、熊本県水俣市を訪れた。恥ずかしながら、私は水俣でかつて多くの人の命と生活を奪った公害があったことを知らず、このとき水俣市立水俣病資料館館長の吉本哲郎さん、語り部の杉本栄子さんたちが語ってくれたすさまじい事実に大きな衝撃を受けた。わずか2泊3日の滞在だったが、このとき水俣で目にしたこと、そこで出会った人たちから聞かされたことは、研究者として歩むべき道を深く考えさせられるきっかけとなった。

 

地域を元気にする――吉本哲郎さんの学問

 新幹線で新水俣駅に到着したのは、正午を少し回った時刻だった。水俣市役所近くの食堂で、草郷先生から今回の旅の案内人だよと紹介され、吉本さんとはじめてお会いした。吉本さんは市役所で水俣病の歴史について簡単に説明し、さらに水俣病資料館に移動してから、水俣病の被害を受けた患者たちがどのような人生を送ったのかを詳しく話してくださった。はじめて知るその内容は、にわかには信じがたいほど残酷で、生々しく私の胸に響いた。お話のひとつひとつが、すぐに消化できるものではなかった。水俣病を語るとき、吉本さんは哲学を諭すような、得も言われぬ雰囲気を身に纏っていた。その語りの力にも、私は圧倒されていた。

 その日の晩、旅館で夕食をとったあと、吉本さんと水俣市役所の職員たちが訪ねてきてくださった。誘われるままに旅館の食堂でビールで乾杯し、吉本さんの語りの続きを聞かせていただいた。ひとしきりお話されてから、吉本さんはおもむろに鞄から一冊の本を取り出し、私たちに手渡してくださった。『地域から変わる日本―地元学とは何か』(農文協、2001年)というその本の導入にある文章、「風に聞け 土に着け」を、皆で回しながらその場で読んだ。「地元学」とは、吉本さんが提唱する新しい学問のあり方だという。「なぜ学問をするのか。ほとんどの研究者は学会や論文発表のために研究する。つまり自分の業績のためだ。でも本当に私たちに必要な学問は、地域を元気にする学問のはずだ。そんなものは日本のどこにもない。だから自分で地元学をつくった」。吉本さんはそう語る。

 吉本さんの書く文章は、とても具体的に、明快に「地域を元気にする」という目標につながっている。そこでは地元とは何か、どのように捉えるのか、良さをいかに引き出すのかが論理的に描かれ、現代社会の構造的な諸問題を踏まえた上で「地域を元気にする」ためのアイデアが分かりやすく提示される。吉本さんの地元学は、私のような直感的な人間にも、すとんと腑に落ちる言葉で成り立っている。

 翌日、私たちは吉本さんを中心として活動する「村丸ごと生活博物館」を訪れた。驚いたことに、普通の博物館のように展示品が並ぶ建物ではなく、自然、産業、生活文化を守り育んでいる地域そのものを博物館として見立て、そこを見てもらうという新しい試みだった。水俣市から指定を受けた地区が「村丸ごと生活博物館」となり、住人のなかから「生活学芸員」と「生活職人」が認定される。そうした人たちは、それぞれ村の元気につながる活動に取り組んでいるのだという。

 「村丸ごと生活博物館」に指定された越小場地区を見てまわるなかで、有機紅茶を栽培する天野さんという方と知り合った。天野さんは環境問題を手掛かりに地元の役に立つ活動を続けており、地球環境の行く末にも深く関心を持っていた。「モンゴル人は家畜を中心に自然を考えるでしょう?モンゴル人の自然観だったり、価値観は日本でも通じるものがある。海外の環境問題についても勉強したいなあ」。その日の夜には、天野さんのお父さんが仕留めたイノシシの肉と焼酎を担いで山に登り、満天の星空を眺めながらお話を聞かせていただいた。

 

自分が変わる――杉本栄子さんの語り

 次の日には、水俣病の語り部たちの集いにお邪魔させていただいた。私たちを迎えてくれたのは杉本栄子さんという方で、ご自宅で昼食までご馳走になった。昼食をご一緒しながら、杉本さん夫婦と長男の肇さんから水俣病を患った経験を聞かせていただいた。水俣市茂道の網元の家に生まれた杉本さんは、若い頃に水銀の毒に冒され、第一水俣患者に認定された。そのことで周囲の人たちから心ない言葉を浴びせられ、蔑まれる日々が続いたという。理不尽な状況に耐え切れず、ときに家族に感情をぶつけ、怒り狂うこともあった。そうしたある日、学校でいじめにあって帰ってきた杉本さんに、お父さんがこう告げた。「人さまが変わらないのだったら、私たちが変わろうじゃないか」。

 実はこの言葉は水俣病患者を守るための活動のスローガンになっており、水俣資料館でも目にはしていたのだが、さほど印象には残らなかった。しかし、同じ言葉を杉本さんの口から、ご自身の経験として聞かされた時、ずしりと言葉の重みが伝わってきた。杉本さんは語り部となり、水俣病を多くの人に伝え続けてきた。「水俣病研究のために大勢の研究者が水俣を訪れました。彼らはたくさんの業績をつくり、教授になったり、昇格したりしました。でも、私たち水俣病患者を取り巻く環境は何も変わらなかった。だからこそ、自分たちのことは自分たちで、世界に向けて発信しなければならないんです」。杉本さんの語りは、聞く人に水俣病を突き付け、その意味を考えさせる。私もまた杉本さんとの出会いによって、正面から向き合わなければならない現実のひとつを知った。

 このときお目にかかってからわずか1年後、杉本さんは水俣病院で亡くなった。他者との共生と共存。杉本さんは生涯をかけて、そのための道を探し求めてこられたのだろうと思う。

 

 水俣との出会いは、文明とはかならずしも1本道ではないのではないかという気づきを与えてくれた。急ぎすぎた近代化が水俣に残した爪痕は壮絶なものだったが、そこに住む人々は悲しみや怒りを乗り越えて、再生の道を歩み始めていた。「地域を元気にする」ための哲学と実践を続ける吉本さん、発展の陰にある負の記憶を語り伝えてきた杉本さん、自然の力をお茶の美味しさに込めようとする天野さん、それぞれが自分の道を切り拓いているように思えた。水俣を経験して、私もまた歩むべき道を模索し始めていた。

 

 

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