第55回 「オンギー川で出会った人びと①――ラマと“ニンジャ”の祈り」

 

開発と伝統

 2006年の冬、金沢に住む知人から紹介され、神戸外国語大学で学ぶモンゴル国からの留学生と知り合った。バヤサさんというその女性は、モンゴルでもとりわけ遊牧が盛んなウブルハンガイ県の出身で、ラマ(チベット仏教僧)のおじいさんに育てられたという。この連載でも紹介したように、私の祖父もラマとして修業した人だったが、文化大革命の時代に無理やり還俗させられていた。私はバヤサさんのおじいさんに会ってみたくなり、次の里帰りに同行するかたちで彼女の故郷に連れて行ってもらう約束をした。

 バヤサさんとともにウブルハンガイ県を訪れたのは、翌年の夏休みだった。豊かな降水に恵まれたこともあり、バヤサさんのおじいさんが暮らす草原は鮮やかな緑に染まっていた。おじいさんは羊を一頭つぶして歓迎してくれた。一緒に近くの丘に登ると、遠くに草原を貫いて流れる川が見える。オンギー川というらしい。美しい名前だ。オボー(積み石でつくった祈り塚)が建つその丘にも、白鳥を意味するホントというきれいな響きの名がつけられていた。

f:id:koubundou:20191114164738j:plain

ゾンドンダンバ氏(バヤサさんのおじいさん) 2007年9月、スチンフ撮影

 ところが翌日、馬で放牧に出かけてオンギー川のそばまで行ってみると、意外なことに水はずいぶん濁っていた。通りがかった牧畜民に聞けば、「ニンジャが川を掘ってるんだ。鉱山開発のせいだよ」、「湧き水でないと飲めない。上流で土を掘り返しているからね」という。“ニンジャ”という言葉は聞いたことがない。自然を敬うモンゴル人が土を掘り、川を濁らせているとはにわかには信じがたいが、ニンジャとは一体どんな人たちなのだろう。

 のちに調べたことだが、もともとオンギー川はウブルハンガイ県北部の山地から南西方向へ400㎞にわたって流れて南部ゴビ県のウランノールという湖に注ぎ、流域に住むおよそ1万2千人の牧畜民と、100万頭以上の家畜にとって大切な水源だった。かつては川幅が1㎞にも達する豊かな流れを誇っていたが、いまではしばしば断流するほど水量が減ってしまい、そのせいで周囲の草原も貧弱になってしまっている。2000年代半ば以降には、オンギー川にそそぐ5つの支流のうち2つが消滅し、ウランノールも干上がってしまっていた。

 その原因は鉱山開発で、ニンジャと呼ばれる人たちはそこに集まっているのだという。私は現場を見てみたくなり、バヤサさんの夫のボルドーさんと連れ立って、オンギー川上流のウヤンガ・ソムを訪れた。ちょうどボルドーさんのお母さんがそこの税務局に勤めていたことから、特別に採掘の現場を視察することができた。そこで目にした情景は、それまで憧れとともに抱いていたモンゴル国のイメージを覆すほど惨憺たるものだった。掘削でできた盛り土と無数の水たまりが大地を覆い、重機が発する轟音が絶え間なく響きわたる。よくみれば、ウォッカの空き瓶やビニール袋などのごみがあちこちに散乱している。ひっきりなしに行き交うバイクが巻き上げる砂ぼこりで、空気までが苦い。そうしたなか、小さいお盆を手にした人々が歩き回っている。あたりに積み上げられた残土をお盆にすくい、水で洗い流してはお金になる鉱物を集めているようだった。

f:id:koubundou:20191114164850j:plain

採掘現場 2007年9月、スチンフ撮影

 モンゴルが歩んできた近代化は、私が想像していた以上に険しいものだったのかもしれない。モンゴルの草原の豊かさを感じ、ラマのおじいさんから伝統的な哲学を聞きたいと思ってやってきたはずだったが、帰路に着いた私の瞼に焼き付いていたのは、草原の緑よりも採掘現場の赤茶けた土の色だった。

 オンギー川上流の鉱山開発の現場で出会った彼らこそが、ニンジャと呼ばれる人々だった。日本に帰ってから調べてみると、お盆やスコップを背負う彼らの姿が、日本の忍者をモチーフにしたアメリカのコミック“Teenage Mutant Ninja Turtles(邦題『ミュータントタートルズ』)”に登場する亀のキャラクターに似ていることからできた造語だということが分かった。彼らは政府が発行する許可証を持たず、採掘現場の近くに自発的に集まってきては貴金属を採掘する人たちが多いため、一般にはならず者といったイメージを持たれている。ニンジャとなる人たちには社会主義体制の崩壊によって職を失った公務員や国営企業の労働者などが多いが、遊牧民や会社勤めの人、学生だという人も混じっているようだった。

f:id:koubundou:20191114164934j:plain

ニンジャの仕事 2007年9月、スチンフ撮影

 折よくJICAの研究助成を得ることができ、さらに本格的にニンジャについて研究を行うことになった。そのなかで、オンギー川上流はニンジャが最初に現れた地域だということが分かってきた。1995年の法改正を機にある企業がオンギー川源流域の土地を安く買い上げ、ロシアから輸入した設備を使って採掘を始めたのが鉱山開発の始まりだった。事業そのものは3年間で終了したが、砂金が採れるという噂に惹かれてやってきた人々がその後も採掘を続け、一獲千金を成し遂げた人が出たことから飛躍的に数を増していった。やがてそうした人々はニンジャと呼ばれるようになり、各地の採掘現場にも拡大していく。ニンジャが全国的な社会現象となるにつれて、生活費や学費を稼ぐための出稼ぎ感覚で採掘に従事する人が現れ、年齢や性別、職業を問わずニンジャのすそ野は広がっていった。

 しかし、そうした知識だけでは、ニンジャとはどのような人たちなのか、本当に理解できた気はしなかった。オンギー川流域にはもともとチベット仏教の寺院が多く、草原の起伏に合わせて祈りの場であるオボーも無数にみられる信仰のふかい場所だった。そうした土地で環境破壊が進んでいる現実が、私にはどうしても理解しがたかった。ニンジャたちが現れた背景にある現実を理解することは、仏教信仰と遊牧を柱とするモンゴルの伝統がどこへ向かうのかを考えるヒントにもなるはずだ。そこで私は、鉱山開発が行われる土地の人々や、それを担うニンジャたちが採掘行為をどのようなものとして考えているのかを調べるところから着手することにした。

 

バヤサさんの家族が語るオンギー川

 オンギー川流域は、ダライ・ラマ3世をはじめとして、ウンデルゲゲン、ツウェルワンツェクドルジなど歴史に残る偉大な宗教家や哲学者とゆかりのある土地である。バヤサさんのおじいさんのゾンドンダンバ氏も、チベット仏教の僧として地域の伝統に大きな貢献をなした人だった。ゾンドンダンバ氏は1919年にオンギー川のほとりに生まれ、7歳の時叔父を頼ってガンダン寺という有名なお寺に奉公に出た。そこで10年間修業の日々を送ったが、スターリンによる宗教弾圧を受けて寺を追放されてしまう。当時、寺を追われた若者たちは軍隊に徴兵されたといい、ゾンドンダンバ氏もハルハ河の戦い(ノモンハン事件)で軍医を務めた。戦乱が終わってみると、かつて修業した寺はなくなっていた。社会主義体制下で採られた「近代化」政策のもとでは、宗教関連施設は封建社会の象徴とみなされ次々と破壊されていったのだ。それでも、ゾンドンダンバ氏はいつか平穏な時代が訪れると信じ、心のなかで祈り続けたという。その祈りはついに叶い、モンゴルで民主化が進んだ1990年代、ゾンドンダンバ氏は僧籍を回復することができた。その後はかつて一緒に修業した仲間とともに寺の復興に奔走し、見事にその事業を成し遂げたのだった。

 ゾンドンダンバ氏の末の息子、ツェンデーさんは次のように語る。「私がまだ若かった頃、ほとんどの遊牧民がオンギー川流域で夏のひとときを過ごし、山麓で越冬していた。1年間のゲルの移動回数も5、6回、多い時には10回行っていたし、それが当たり前だった。春には、オンギー川沿いの草むらにいったん足を踏み入れてしまえば、大事な靴が濡れて駄目になってしまうから、裸足で歩くようにしていた。遊牧民は随分変わってしまった。まずは移動しない。移動したくても難しくなってしまった。なぜか。荷物が多すぎるからだ。昔は牛車2台で十分だった。日の出から日没までには移動できた。それが今の遊牧民は移動で大騒ぎしている。自然はずいぶん変わってしまった。文化、慣習は激変した。私のゲルの近くには白鳥が飛来していた。白鳥だけでなくたくさんの動植物が生息していた。今、白鳥は飛来するが、子育てしなくなった。タルバグ(モンゴリアンモルモット)は見かけなくなった。草原の色も意味も変わってしまった。パンジェット大師(地域で大きな影響力を持っていた僧)も、『オンギー川流域は自然豊かで家畜はたくましく、人も明るい。まさに神から与えられた大地だ』とおっしゃっていた。なぜ人々はそれを忘れたのか」。

 

生きるために

 あるとき、ウヤンガ・ソムの市街から車で採掘現場に向かう途上、路傍に見慣れない小屋が建てられているのが見えた。運転手に尋ねてみると、旅の安全を祈願する場所なのだという。気になって立ち寄ってみると、スコップを抱えた20代から30代の男が数人なかにおり、熱心に祈りの言葉をあげていた。しばらく前に中央県からやってきてニンジャをしており、現場に通う度にこの小屋で祈っているのだという。

 少し立ち話をしていて、意外なことを聞いた。祈りを欠かさないのは、安全祈願というよりも、神に許しを乞うているのだという。普段は遊牧をしているが、家畜を売って手に入れる現金だけでは子供の学費などまで賄いきれない。生きるためにニンジャになるのは仕方がない。しかし、土を掘り返し、川を汚せば罰が下ることも分かっているから、疲れているはずなのに夜もあまり眠れない。だからせめてこうして祈りをあげているのだ、と。

 その場を後にしてから、年若いニンジャたちの言葉は私の心を揺さぶり続けた。自然を敬い、畏れる心を持ちながら、それでも自らの手を汚さねばならないとしたら。そのとき、私ならばどうするだろうか。ひょっとすると、私もまたニンジャなのかもしれない――。

 それから私は何度もオンギー川に足を運び、ときに採掘に同行しながらニンジャの調査をすることになる。ニンジャもまたモンゴル人であり、遊牧民なのだ。環境破壊の現場に出没する「ミュータント」のように映ることがあったとしても、けっして自然を敬う心を失ってはいない。そのことを忘れず、ニンジャの声を聞きたいと思ったからだった。

 

 時代に翻弄されながらも変わらぬ祈りを貫いたゾンドンダンバ氏の人生は、モンゴル人の信仰の深さと強さを物語っている。一方で、ニンジャは自然だけでなくモンゴルの伝統を破壊する存在であるかのように見えるかもしれない。しかし、本当にそうなのだろうか。ニンジャもまた、心に祈りを秘めながら生きているのではないのか。オンギー川での出会いは、私のなかでいつしか膨らみすぎていた理想のモンゴルとは異なる現実と向き合い、その間の溝を考えるきっかけを与えてくれた。

 

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.