第65回 「宴(であい)②」

オンライン飲み会

 食べて、飲んで、わかる。わかるだけでなく、おいしい料理や酒の力も借りて互いの立場を忘れて楽しむうちに、そこに居合わせた人同士で何かを一緒にやろうというきっかけが生まれる。フィールドでももちろんそうだが、私にとって飲み会は、生まれも世代も遠く離れた学生たちのことを理解し、できれば背中を押してあげるための大切な場でもある。だからこそ、モンゴルや雲南でのフィールドスタディではもちろん、大学の近くの居酒屋でも、時間とお金の許す限り学生たちと一緒に食べ、飲んできた。

 ところが、新型コロナウイルスのせいで、飲み会はおろか顔を合わせることすら憚られるようになってしまった。ここは忍耐あるのみと自宅で過ごす日が続いたが、やはり学生や世界中の友人たちが元気でいるかどうかが気になる。近況を知らせる電話やメールをもらうとホッとするが、そういえばあの子とはしばらく連絡していないけれど大丈夫かな、と不安になってくる。中国での感染拡大がようやく落ち着いたと思えば、今度はヨーロッパでの相次ぐロックダウンが心配になる。安否を確認する電話やメッセージが日に日に増え、スマートフォンと睨めっこしている時間が日増しに長くなっていった。

 そんな折、学生の一人からオンラインで飲み会をしましょうという誘いをもらった。SNSやリモート会議向けのサービスを利用して、顔を見ながら乾杯しようということだった。なるほどその手があったかと早速試してみれば、新鮮な驚きも手伝ってけっこう面白い。画面越しの乾杯は思いのほか臨場感があるし、相手の表情もそれなりに見てとれる。料理を皆で一緒につつくことができないのは残念だが、参加者が口に運ぶ度にちらっと見え隠れする酒や肴も、目の前にないからこそ興味をそそって話題になる。お酒を片手に他愛もない話で笑いあい、久しぶりに心からリラックスすることができた。気づけば日付が変わってからかなりの時間が経っていたが、終電を気にせずゆっくりできるのも嬉しいところだった。

 それから何度か、私の方から呼びかけてオンライン飲み会を催した。距離にかかわらず参加できるため、大学の周辺に住む現役の学生だけでなく、東京やそれぞれの地元で働く卒業生も誘いに応じてくれ、なかには数年ぶりに顔を見せてくれた元学生もいた。久しぶりに見た彼らの様子はさまざまで、元気そうな顔もあれば、やつれてしまった顔もある。ひとりひとり近況を聞いてみると、オンライン上であっても同級生や同僚、友達とプライベートな時間を持てていれば、自由に出歩けない状況に文句を言いながらも何とかやっていけているようだった。それとは逆に、大学や会社以外のつながりが少なく、独りで課題や仕事に追われている子たちの顔は、大きな不安を抱えているように見えた。とくに、春から社会に出た矢先にコロナ禍と遭遇し、職場仲間とすら会えないまま働いている新入生たちが、新しい環境で孤独を感じてはいないかと気がかりだった。

 

「無駄」を失わないために

 見えない脅威に直面したとき、人は不安になる。こんな時代だからこそ、私たちはいつも以上に自分以外の誰かの存在を必要としているのではないか。技術の力で人と人とをつなぐ新しいやり方がそこに登場したのは、偶然ではあるにしても意味深い。人間はこれまでも、新しい技術を生み出す度に自らの行動様式を刷新し、社会の規範を塗り替え、人と人のあるべき関係すらも変えてきた。とりわけ目まぐるしい技術革新のなかで生きる私たちは、変化することが当たり前で、正しいことだとすら感じるようになっている。会社の会議や大学の授業だけでなく、飲み会ですらたった数か月の間にオンラインで行うのが不自然ではなくなったように、その変化の速さは空恐ろしいほどだ。もしかすると、気鋭の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリが近著『ホモ・デウス』で論じるように、技術の蓄積は人類という存在を大きな転換点に立たせるところにまで至っているのかもしれない。

 私たちの生活は高度な技術によって支えられているだけでなく、縛られてもいる。オンラインで授業をするようになると、学校に行くために蒸し暑いなか自転車を漕ぐ手間を省けるが、通学路の途中にある家の菜園の野菜や花の成長に時のうつろいを感じることも、帰りがけに寄ったスーパーで知り合いとばったり会って一杯飲みに行く、ということもなくなる。さらにいえば、いつでもパック詰めされた肉が手に入るスーパーがあるおかげで、私たちは自分で家畜を養う労力から解放されているが、まさにそのせいで、解体の手さばきの巧拙で肉の味がまるで変ってくるということを知るきっかけは失われる。たとえそれが無駄なことであったとしても、新しい技術や道具、制度に適応していくなかで閉ざされてきた可能性があるということも、やはり忘れてはならないだろう。

 大きくみれば技術の発達は一貫して無駄を省く方向で進み、社会の効率化に帰結してきた。今日の世界では、日本だけでなく雲南でもモンゴルでも、誰もその流れから逃れることはできない。とりわけコロナ禍以降は、急速に労働や教育を含む社会的活動のオンライン化が進められたことによって、最後に残された私的な領域であったはずの自宅まで、合理的であれ、効率的であれという声が直接届く場所になりつつあるのかもしれない。そうであればこそ、同じツールを用いて――たとえばオンライン飲み会といった――「無駄」なことをしていくことが、ますます高度化していく情報通信技術を飼いならし、人間らしく使いこなすためにも必要なのではないか。

 

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