第68回 草との再会

緑の光

 目を閉じて、故郷の思い出をさかのぼっていく。すると、その源流の少し手前のあたりで、淡い緑のきらめきと、ふくよかな芽吹きの匂いに包まれた記憶に行きつく。生まれたての子羊を乗せた籠を抱えながら、しばし歩みを止めて「ノゴントヤ(緑の光)」と呟いた祖母の声が、その光景に重なっている。

 モンゴルの遊牧民にとって、草は家畜を育て、ひいては人を生かしてくれる大切な存在だ。草の芽吹きは無条件の喜びであり、誰しもがはやく、色濃く育つよう祈りを込めてそれを見守る。しかし、そのなりゆきはあくまで天の采配によるものであって、人の手で左右できるという発想はなかった。人間ができるのは、あめつちがもたらす実りを見極め、家畜を飢えさせないよう群れを追うことだけだった。

 どんなに願っても、すべての生命のもとになる草の成長を手助けすることはできない。しかし、だからこそ天の気まぐれに縋って伸びようとする草の気持ちに共感してしまうのだろう。ノゴントヤ、緑の光とはいかにも文学的な修辞を凝らした表現のようにも響くが、そのじつ雪氷を破ってようやく陽の光と出会った草の喜びを代弁する、とても素直な言葉なのだ。

 

手を動かして気づく

 これまで私は、自然環境が社会や文化のあり方を左右すると学生に教えてきた。たとえばシベリアのトナカイ遊牧民は、針葉樹や苔など決して豊かとはいえないタイガの植生をうまく利用して家畜を育て、生活の糧を得る術を発達させている。こんなふうに、人間は環境に縛られながら、環境を活かして暮らす智慧を生み出してきた。だから、フィールドに出たときには人の話に耳を傾けるだけでなく、自然がみせるさまざまな姿にもよく目を凝らすようにと、大学の授業では繰り返し伝えてきた。

 ところが、宍粟市に移り住んで庭いじりや野菜づくりにいそしむ生活を送るなかで、私自身が身近にある自然のことをまるで分かっていなかったのだと思い知らされた。モンゴルやシベリアとは比べものにならないくらい暖かく、水も豊かな環境で、しかもきちんと整えられた畑があるのだから苦労はないと高をくくっていたが、そう簡単にはいかなかったのだ。庭の雑草は放っておいてもやたらに伸びてくるのに、畑に植えたスイカやエダマメはなかなか育ってくれない。ようやく実がつきはじめたところで、野鳥につつかれて台無しになってしまったこともあった。幸いなことに、お隣に住む久保さんや学生たちが世話を焼いてくれたおかげで収穫の喜びは味わえたが、私ひとりでは手も足も出なかった。教壇の上では環境だ、生態だと偉そうに講釈していながら、手を動かしてみれば家まわりのことすら満足にできなかったのだと思うと、いまさらながら恥ずかしくなってしまう。

 

森を見て草を見ず

 「木を見て森を見ず」という言い方がある。細部にとらわれて全体を見通す視野に欠ける人を戒めるときに使う言葉だが、これを文字通り自然の捉え方に当てはめてみると、どうやらこれまでの私の場合はむしろ逆で、頭のなかに森を描くことにかまけ過ぎていたのかもしれない。

 文化人類学を学び始めてからの私は、シベリアや中国東北地方ではトナカイ牧畜民の森林利用に、日本では人の手が入ることで維持される里山の生態系に関心を寄せてきた。2014年から宍粟市で行ってきた国内フィールドスタディの授業でも、森林資源の活用を中心的なテーマに据えてきた。しかし、いざ実際にそこで生活をはじめてみると、庭や畑の手入れだけで手一杯で、森どころか裏山を散策する暇すらほとんどなかった。とくに初夏から秋口にかけては、ところかまわず生えてくる雑草をどう退治するかで頭がいっぱいで、どうしても「森を見る」ような巨視的な思考からは遠ざかってしまう。少し頭でっかちになっていた私にとってはそれが、いいリハビリになっている。

 思いがけないところに芽を出して、いつのまにか生い茂る雑草は、ひと夏のあいだ否応なく手を煩わせる。かと思えば、秋を迎えると急に大人しくなって、放っておいてもいなくなる。ひと夏限りの生命をわがままに謳歌する雑草は、じっくり考えて管理してやろうという思考をするりと逃れていく。モンゴルの草原を離れてから実に数十年ぶりに――厄介者としてではあるが――再び出会った草は、やはり人間の手の及ばないところにある自然の存在を思い起こさせてくれる。

 宍粟の山麓で二度目の夏、よくもまあ手を焼かせてくれるものだと呆れつつせっせと草を抜きながら、ふと天の恵みを受けて伸びる草の姿に見とれては、「ノゴントヤ」と呟いてしまう。

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モンゴルの春を告げる花ヤルグイ(パルサティラ) 作者撮影、作成

 

※次回は8/26(木)更新予定です。

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