第49回 「シベリアへ②」

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ロシア語の壁

 シベリア鉄道の旅を終え、いよいよクラスノヤルスク大学での留学生活が始まった。住まいは学生寮ではなく、ホームステイを希望した。これまで中国語や日本語を学んできた経験から、新しい言葉を学ぶには、現地の人と接する時間をたくさんとれる環境に身を置くことが何よりも大事だと考えていたからだ。幸いなことに、日本語講師の金子さんの紹介を受けて、外国語学部で秘書をつとめるリリヤさんの自宅でホームステイをさせていただく手筈が整っていた。

 リリヤさんと2人の娘さんが暮らすアパートはクラスノヤルスク市内中心部にあったので、郊外にある大学まではバスに揺られて通う。車窓から眺める街並みは日本や中国の都市とはずいぶん異なり、少し滞在したことのあるドイツともどこか雰囲気が違う。アジアとヨーロッパをつなぐ歴史が反映されているようで、見ていて飽きることがない。しかし、窓の外にお洒落な建物や美味しそうな匂いを漂わせている店を見つけても、看板に書かれた文字が読めず、果たしてどんなものを売っているのか分からないのが残念だった。

 半月ほどすると買い物やバスの乗り降りなど生活で最低限必要なことはだいたい1人でこなせるようになったが、リリヤさんや娘さんたちとのコミュニケーションはあいかわらず身振りや手ぶりが主で、簡単な単語をさしはさんでどうにか成り立たせているような状態のままだった。リリヤさんは料理が好きで、毎日食べたいもののリクエストを聞いてくれるが、私は「ボルシチ」や「ペレミニ(水餃子)」などいくつかの名前しか答えることができない。本当はもっと色々な料理が食べたいのに、それを伝える言葉が出てこないのだ。リリヤさんや娘さんは折に触れて話しかけてくれるが、単語のやりとりや短い定型句のやりとりだけになってしまい、会話として成立することはなかった。リリヤさん一家の気遣いを思えばこそ、言葉の壁がもどかしかった。

 通学に使うバス停の周りでは、いつも大勢のお年寄りが路上に座り込み、自家製のジャムやピクルス、手編みの靴下などを並べて売っていた。寒空の下、上目遣いに通りゆく人を窺う老人たちのどこか哀しい目に心を揺さぶられ、つい私はこまごましたものを買ってしまう。しかし、塩漬けのニンジンやキャベツを持って帰宅すると、リリヤさんは少し困った顔をして「たまにはいいけれど、なるべくスーパーで買うようにしてね」などと言うのが常だった。リリヤさんは路上で小商いをする老人たちのことをどう思っているのか、そもそもなぜこんなにたくさんの物売りがいるのか。色々と聞きたいことはあったし、私が路上販売のものを買ってしまう理由も話したかったが、ロシア語というかつてなく高い言葉の壁に阻まれ、腰を据えて会話することはできないまま時が過ぎていった。

 留学経験のある方はお分かりになるかもしれないが、新しい言語を学び始めてしばらくすると、テレビ番組や街ゆく人の話は聞き取れなくても、先生や友達、ホストファミリーなど身近な人たちの言うことならば何となく分かるという時期が訪れる。複雑な構文や難しい単語はまだ手に負えないが、初学者向けにできるだけ簡単な言葉や表現を使ってくれる相手との会話ならば理解できるというステップがあるのだと思う。すくなくとも、私がそれまでに学んできた中国語、日本語、ドイツ語については、親しい人とのコミュニケーションを繰り返すなかでそうしたステップを踏み、効率的に会話能力を伸ばすことができた。

 しかし、ロシア語の場合はどうやら勝手が違った。動詞や名詞の格変化、ジェンダーなどのルールがあきれるほど複雑かつ厳格で、ちょっとした文法のミスだけで言いたいことが伝わらなくなってしまう。このため、ネイティブの人との対話のなかで間違いを繰り返しながら上達していくといった実践的な学習方法が通用しにくい。リリヤさんたちとの会話も一向に進歩せず、学ぶ楽しさを見失ってしまいそうになった。

 

酒よ、スパシーバ(ありがとう)

 クラスノヤルスクに来て1か月半が経った頃、外国語学部の先生から日本語と中国語の授業を受け持ってくれないかと依頼があった。ロシア語の学習時間が減るので困ったとは思ったが、無下に断ることもできず、それからは午前中だけ先生として教壇に立ち、午後は生徒に戻ってロシア語を勉強する掛け持ちの留学生になってしまった。

 ある日、職員室の事務員さんたちとのお喋りのなかで、リリヤさんがパートナーとの同居を考えているらしいという噂を耳にした。それならば邪魔になってはいけないと思い、私は引っ越しを決めた。さらに数日後、やはり職員室でその話をしていると、外国語学部の学部長が次のホームステイ先を紹介しようと言ってくれた。新しいホストファミリーは学部長の友人で、市内の民間企業で働くエレーナさんという女性で、クラスノヤルスク工業大学で教鞭をとっていた夫を2年前に亡くし、大学生の息子と2人暮らしをしているらしい。

 トランク1つで引っ越しは完了し、エレーナさん、息子のワロージャとの生活が始まった。モンゴルなのか中国なのか、はたまた日本なのか「出身地不詳」の来歴が面白かったらしく、私は連日2人からの質問攻めにあったが、ロシア語が聞きとれないことが歯痒く、テレビを見るふりをして会話を避けてしまったりもした。ところが、2人はそのような後ろ向きの態度を気にも留めず、買い物や観光、友人宅に遊びに行くときなども含めて毎日のように私を外に連れ出してくれた。

 エレーナさんは出張でクラスノヤルスクを不在にすることが多かったため、ワロージャと一緒に過ごす時間は自然と長くなった。エレーナさんが家を空けると、ワロージャはたいてい友達を呼んで酒盛りをする。もちろん私もそこに加わり、ときに家で、ときに近くの公園や裏山で夜を明かす。酔いが深くなれば英語やドイツ語をちゃんぽんに交えての会話が弾み、そうなるとようやくロシア語特有の堅牢な厳格さも緩むらしく、片言でもなぜか互いに通じ合えてしまうのが不思議だった。

 言葉の壁を打ち壊すまではいかずとも、クラスノヤルスクの人たちと飲んだ酒は、分厚い壁の奥まで浸み込んでいくぶん柔らかくしてくれたと思う。いよいよ冬将軍が到来した頃、温度計の目盛りは零下52度のあたりで動かず、バスを降りて家までの帰路を5分ほど歩いただけで鼻から肺にかけての気道がしくしく痛むような日のことだった。ウォッカとつまみを買って帰ろうとアパート近くの売店に入ると、暖炉を囲んで4、5人の男が酒を飲んでいる。誘われるままにその輪に加わり、鶏の丸焼きを肴に男たちとウォッカを酌み交すことになった。名前だけは聞いたが、サラリーマンなのか労働者なのか、どこの出身なのか、そういったことは誰も尋ねないまま乾杯を重ねる。どれくらいの時間が経ったのか、「寒くなったらまた飲もうな!」の一言を最後にお開きになり、そこに居合わせた男たちは三々五々帰路に就いた。誰が勘定したのかも分からないままだった。

 酒を飲みながらの会話は、たとえ知らない男が相手であってもなぜか楽しく、知りたい、あるいは伝えたいという気持ちが沸いてくる。ロシア語はとにかく文法上の規則が複雑で、普段はどうしてもそこに気をとられてしまいがちだが、酒が入れば尻込みせずに言いたいことを口にしてしまえる。ロシア語をマスターすることそのものではなく、あくまで身につけた言葉を駆使して理解し、学べることがあるからこそ留学に来ているのだ。売店で出会った男たちと酌み交したウォッカは、滓のように積もり始めていたコンプレックスを溶かしてくれるようだった。

 初心を取り戻した私は、およそ2か月後に予定していた日本への一時帰国までを「ロシア語猛特訓期間」と決め、起床から就寝までずっとロシア語学習だけに集中することにした。毎日朝5時から7時までは単語を覚え、昼間は大学の授業で学んだことを完全に理解できるまで復習する。夕食後は作文の時間に充て、エレーナさんかワロージャに添削をしてもらう。就寝前に時間があれば、チェーホフの短編小説を繰り返し読んだ。

 2006年の元旦、エレーナさんと彼女の同僚たちが催した新年を祝う会に呼ばれて酒を飲んでいると、おもむろにエレーナさんが壇上に立ち、「スチンフ君の作文が新聞に掲載されることになりました。おめでとう!」と乾杯することになった。「カラスとロシア人の“迷信”」というタイトルで書いた作文をエレーナさんが添削し、地元の新聞に投稿していたらしい。どうやら丁寧な添削のおかげで私が書いた文章はほとんど残っていないようだったが、酒の席での話題づくりにはなって嬉しかった。また、この作文がきっかけになったのか、しばらくして地元のテレビ局からも取材の申し出があった。「異文化体験」というバラエティ番組で、ロシア語を勉強しているところを撮影したいのだという。ロシア語にコンプレックスを感じていた私は、恥ずかしくてとてもではないが人様にお見せできないと断ったが、外国人のロシア語学習者がどこでつまずき、どこで困っているのかを伝えたいのだと説得され、結局は取材に応じることになってしまった。

 言葉を学ぶに際して、上達のきっかけになる手がかりがある場所は人それぞれだろう。私の場合、それは中国語、日本語、エヴェンキ語、ドイツ語、ロシア語と言語によっても少しずつ違った。しかし、その言語を通じてしか理解できないこと、分かり合えない相手に興味を持つことは、言葉の壁を越えて行くために不可欠な力の源だと思う。そして私のような「不良」にとっては、お酒もまた言葉を学ぶ上でのエネルギー源の1つなのだ。

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