第59回 「地域に学び、地域とかかわる②」

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雲南との出会い

 雲南を初めて訪れたのは2005年の晩秋、WWF(世界自然保護基金)の支援を受けて中国最大の環境保護NGOである「自然之友」が雲南北部の高原で始めた活動に、ボランティアとして参加したことがきっかけだった。寒さと乾燥が厳しいこの地域の住人たちは、ヤクの毛で編まれたテントや石造りの家の真ん中で一日中火を焚いて暖をとり、お茶を沸かす。しかし、モンゴルのゲルで育った私からするとどうしてなのか不思議でならないのだが、彼らの家やテントは風が通るような造りになっているため、部屋を暖めるためには毎日大量の薪を用意しなければならない。これが森林の過剰伐採の一因となり、貧しい家庭にとっては薪を入手するための負担も大きいということだったので、私たちは地元の板金工場で試作を繰り返しながら燃焼効率のよいストーブをつくり、貧困世帯に配って回ることにした。

 モンゴルやシベリアで鍛えた脚力には自信があったが、標高3,000mを越える山道を鉄製のストーブを背負って登るのは予想よりも遥かに大変だった。5㎞程の道のりを4時間以上かけて歩き、ようやく一軒目にたどり着いた時にはへとへとだったが、その家の人たちが喜んでくれたのを見て疲れは吹き飛んでしまった。ぜひ泊っていけという誘いを受け、そのまま一晩お世話になることになった。ずいぶん貧しい様子だったにもかかわらず鶏を2羽つぶしてくれ、近所の人も集まって夜遅くまでお酒を酌み交わした。モンゴル語とチベット語のゆっくりとした調べの歌が静かな夜の空気に馴染み、素晴らしい時間だった。

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雲南の金絲猴 (2006年3月、筆者撮影)

 その後も雲南での環境保護活動にかかわるなかで、西遊記に登場する孫悟空のモデルにもなった金絲猴という猿が棲む地域の自然保護局に勤める鐘泰さんというチベット人と親しくなり、徳欽県(チベット語ではデチェン)という地域の保護区を訪れることがあった。保護区の事務所は、標高3,000m余りのところにあるリス族の美しい村のなかにあった。このとき、鐘泰さんからはとっておきのプレゼントがあると言われていたのだが、数日経っても一向に何かをくれる気配はなく、忘れてしまったのかなと少し残念に思っていた。

 ある晩、鐘泰さん手作りの酒を2人で飲んでいると、深夜になって一台の車が私たちを迎えに来た。鐘泰さんは「今晩は事務所には泊まらないぞ」と言うだけで、どこに行くのかは教えてくれなかった。だいぶ酔っていたのでもう面倒だなあと思いながらも車に乗り込み、うつらうつらしているうちにどこか知らない街のホテルに到着し、部屋に案内された。鐘泰さんは「おやすみ」と言い残してすぐに出ていったので、何だったのかと不思議に思いながら布団をひっかぶってすぐに眠ってしまった。

 翌朝、鐘泰さんが部屋のドアを叩く音で目が覚めた。カーテンから差し込む光はまだ薄暗く、ずいぶん早い時間帯だ。二日酔いで痛む頭をさすりながらドアを開けると、「窓の外を見てごらん」という。昨晩からよく分からないことばかりだと怪訝に思いながらカーテンを引いてみると、雪を冠った峰々の青白い連なりが目に映り、その真ん中にひときわ高く、鋭く屹立し、一座だけ朝日を受けて赤く染まる山が見えた。感動的なまでに美しいその光景が、鐘泰さんが用意してくれたプレゼントなのだった。梅里雪山(現地のチベット語ではカワカプ)というその山は、チベット人にとっては大切な聖地の1つなのだということだった。

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鐘泰さんからのプレゼント・梅里雪山 (2006年3月、筆者撮影)

 

雲南の「毒」

 まだ金沢大学の博士課程に在籍していた2000年の夏、アフリカをフィールドに生態人類学的な研究をされている中林伸浩先生の講義を受講した。狩猟採集民として知られるブッシュマンの暮らしなど興味深い話もあったが、正直なところサバンナや砂漠が広がるアフリカという場所にはあまり関心が持てなかった。そこであるとき、中林先生に「なぜアフリカなのですか」と聞いてみた。先生はしばらく考えてから、「アフリカの毒だね」とおっしゃった。その毒にやられてしまうと、どうしてもまたアフリカに行きたくなってしまうのだという。「毒」というとよくないイメージだが、酒やたばこもうまいからこそ「中毒」になるのだし、そういうものかなと思った。

 それから20年近くが経って、学生からなぜ雲南なのかと問われるようになった。雲南と出会った頃に惹かれたのは、モンゴルとどこか似ているチベット人の考え方や、山の景色とそこに棲む動物の魅力だった。その後さらに雲南省南部のプーアル市やシーサンパンナ市にも足繁く通うようになり、多くの民族が同じ地域に暮らす共生の知恵、奥深い山間地域で豊かな暮らしを築くための伝統、そして驚くほどおいしい食べ物やお酒と、数え上げたらきりがないほどの魅力を知った。それだけでなく、雲南の各地で出会った人たちとの思い出の1つ1つもまた、雲南へと向かう理由になっている。だからこそ、「なぜ雲南なのですか」という問いかけに対して、正確に答える言葉は見当たらない。それでもあえて言うならば、「雲南の毒だね」ということになるだろう。

 

地域とのかかわり

 私にとって雲南は、シベリアやモンゴルと並んで大切な「フィールド」の1つだ。ただし、私は研究だけを目的として雲南に通っているわけではない。環境保護の活動を手伝ったり、フィールドスタディ・プログラムを通じて現地の大学や企業の人たちと協力しながら、実践を通じたかかわり方をしてきた。

 人類学者にとって、理論と実践のバランスを保つことはとても重要なことのはずだ。当たり前のことだが、民族誌に書かれる知識や技術、習慣や信仰は学者のものではなく、フィールドに住む人たちのものだ。人類学的研究の主役はあくまで地域の人たちであって、学者は脇役に過ぎないと言ってしまってもよい。よそ者としてやってきて、四六時中つきまとってはうるさく質問ばかりする人類学者を受け入れ、住まわせ、教える地域の人たちがいてはじめて、人類学の研究は成り立つ。だから、人類学者がフィールドワークを通じて得たものを学問の理論的発展のためだけに利用するとしたら、それは知的な泥棒にほかならない。

 泥棒にならないためにできるのはたった一つ、フィールドで出会う人たちとのかかわりを大切にすることだ。そしてそのためには、地域の視点に立つことが必要になる。学術的な理論はあくまで学者にとっての関心事であって、そればかりを考えていては地域の人たちと深くかかわることなどできないだろう。学問的な課題はひとまず脇に置いて、出会った人たちが求めていることは何か、彼らが持っているよさを活かすにはどうすればよいのか、そういった実践的な問いに取り組むことが、地域と本当の意味でかかわるためのスタートになるのだと思う。

 中国でもっとも著名な人類学者の1人である費孝通は、文化大革命が終わって経済的な自由が戻ってきた1980年代に、地方都市(小城鎮)や地方企業(郷鎮企業)を育て、農村の自主的な発展を実現させるという実践的な目標を立て、政治の舞台でも活躍をみせた。学術的な知識と経験と現実を直接つなごうとするそのユニークな姿勢は、国境を越えて広く社会科学の諸領域に刺激を与え、たとえば内発的発展論で知られる鶴見和子もそこから影響を受けたという。しかし、人類学の現状をみわたしてみると、費孝通のような現実に切り込んでいく姿勢はやや後退してしまっているようだ。確かに、開発や観光現象、あるいは紛争解決や災害復興などさまざまな分野で人類学的な知見を活かそうという試みはなされているのだが、地域が抱える問題とその解決に向けた試みを「描く」ことに重点が置かれ、「地域をよくする」という現実的な働きかけが見えづらいように思うのだ。

 実践的な目標に向けて動くためには、研究だけを目的とした調査を行うよりもずっと深く地域を理解しなければならないし、「自分に何ができるか」を考え、見極めなければならない。理論と実践をつなぐ、そう言うのは簡単だが、本気でやるにはまさに身を賭して挑む覚悟が必要なのだ。

 

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