第3回 文盲に生きた時代②「遊牧の日々がつなぐ人と自然」前篇

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家畜

 政治学習の集会や家庭訪問調査にやってくる人民公社の幹部たちとの接触を除けば、コンシャンダック沙漠で過ごした幼い頃の世界に登場する人々、祖父母とトゥグルグ・アイルに住む4つの家族だけだった。しかし、日々の生活はその何百倍もの数の家畜に囲まれており、私自身も人間より家畜とともに過ごす時間の方がよほど長かった*1

 私たちは家畜たちに食べさせる草を確保するため、夏と冬には家畜を連れて住処を移動する暮らしを送っていた。冬営地(ウブルジョー)と夏営地(ジョスラン)はいつもだいたい同じ場所に定められたが、水不足や大雪などが続いて草の育ちが悪いときには、状態のよい土地を探して春営地(ハブルジャー)ないし秋営地(ナマルジャー)を設けることもあった。そうした場合には、ヒツジの群れはアイル全体でひとまとめにしておき、それぞれの家族はウシの群れだけを連れて別々の場所に向かうなど、伝統と経験に裏打ちされた方法に則って対処する。

 ゾドと呼ばれる大寒波がくると、アバガホショーないしシリンホト市南部のフイトゥンシルまで数百㎞距離を移動して活路を求める。こうした長距離移動をモンゴル語で「オトル」といい、ゾドのためのオトルにはウシとウマのみを連れていく。ヒツジとヤギはアイル周辺で世話し、乾燥と寒さに強いラクダは野に放って自力で切り抜けさせる。このように、モンゴルの遊牧民は知恵と労力を振り絞って家畜を生かそうとする。家畜が飢えることは、人間が飢えることにほかならないからだ。

 

ゲル

 モンゴルの遊牧民と言えば、草原の緑に映える白色のゲルを思い起こされる方も多いと思う。コンシャンダック沙漠で私が祖父母と暮らしていた住まいも、やはりゲルだった。ゲルは木製の骨組みとそれを覆う羊毛のフェルトでできた組み立て式の住居であり、冬営地と夏営地の移動、そしてオトルの必要がある際にも家畜の背に揺られて運ばれる。骨組みは、ハナ(壁)、オン(屋根)、トーノ(天窓)、ウーデ(ドア)とそれぞれ部分ごとに分解できるようになっている。ハナは伸縮するためゲルの高さが調整でき、また数を増やせば広いゲルをつくることができる。側面のハナにかぶせるフェルトはブレス、オンにはデーウェル、トーノにはオルフというように、フェルトの名称と織り方は骨組みのどの部分を覆うかによってそれぞれ異なる。一般的な大きさのゲルの総重量は200kgほどで、ラクダならば1頭で運搬可能である。組み立ても簡便であり、大人2人で行えば2時間足らずで組み上げることができる。少人数で暮らし、移動を繰り返す遊牧民にとって、ゲルはまさにぴったりの住まいなのだ。

 祖父母と私の3人が暮らすゲルも、冬営地と夏営地を往復するたびに建てては解体しを繰り返していた。組み立てを行う祖父母のそばで、フェルトのなかに巣くう虫を退治したり、ハナの連結部が緩んでいないか見て回ったりしたことを覚えている。とはいえ、幼い私はすぐに作業に飽きてしまい、フェルトの上で寝転んだり、草原に遊びに行くのが常だった。ひと眠りするか遊んで帰ってくると、完成したゲルのなかには祖母がお茶を淹れている姿があった。

 ゲルは人が暮らす住居ではあるが、レンガや石でできた家とは違い、自然と人をつなぐ回路でもある。たとえば、ゲルのなかにいる人は意識せずとも時の流れを感じることができる。トーノ(天窓)からゲルのなかへと差し込む陽の光が、照らす場所によって時を教えてくれるのである。夜には夜で、トーノから降り注ぐ月や星の光が不思議な世界へと誘ってくれるような気がした。ドローンボルホン(北斗七星)や星々の名とそれにまつわる物語、月に住む生き物の物語など、祖母が語り聞かせてくれる話がいっそう真実味を添えてくれた。寒い季節になれば、ウーデ(ドア)の窓につく氷の張り具合と厚さ、模様から気温や天気の変化を察することもできた。

 ゲルで暮らすのは人間だけではない。ヒツジとヤギの出産期にあたる2~4月は、暦の上では春ではあるが、外気温はしばしばマイナス20度以下になる。生まれたばかりの仔ヒツジや仔ヤギは、凍死してしまわないようにゲルのなかで育てる。寝床を片付け、乾燥した糞と砂を床に敷いて柵で囲んだところに10頭ほどの仔畜を招き入れるのだ。1週間から10日ほど寒気に慣れさせてから外に出し、さらに幼い仔畜と入れ替えていく。こうした生活はおよそ2か月間続く。夏はゲルの中で火を熾こさないため、トーノの内側にツバメが巣をつくる。蜂もしばしばゲルのなかに巣をつくるが、こちらから危害を与えない限り私たちを襲うことはなかった。乳を発酵させるためのワールンサブ(陶器)の周りには、カエルや虫たちが集まる。ワールンサブの内部と外部の温度差によって表面にできた水滴がしたたり落ち、地面が濡れるからである。乾燥と寒さが厳しい環境のなかにあって、ゲルはさまざまな生き物にとって棲み心地がよい場所なのである。

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「ゲル時計」筆者作成

 

四季

 日々の仕事の中心は家畜の世話だが、その内容は季節によってさまざまである。コンシャンダック沙漠は放牧に適し、かつ安定した環境にあったが、乾燥と厳冬期の長さが災いして生活が脅かされることもあった。自然を限界まで酷使することなく、長くそこで暮らし続けるためにはさまざまな知恵が必要とされるのだ。「四季のうち、春と秋は人が家畜のために生きている。夏になると家畜は恩を返してくれる。冬は家畜と人が一緒になって、厳しい寒さと食べものが乏しい時を乗り越える」。祖父が教えてくれたこの言葉を私なりに解釈すれば、次のような意味になるだろう。すなわち、春には出産期を迎えて家畜の体力が落ちているため、心を込めて世話をしなければならない。秋には越冬のための飼料を用意するため草刈りにいそしまねばならない。そのかわり、夏になると家畜は脂肪を蓄えて美味しい肉と乳を与えてくれる。冬は厳しい寒さと降雪が続くが、家畜と人が一体となれば耐え抜くことができる。コンシャンダック沙漠に生きる人々は、私が生まれるずっと以前から、自然のリズムに合わせた生活を続けてきたのであろう。

 自然とともに生きる日々はどのようなものだったのか。読者のみなさんにイメージを膨らませていただくため、祖父母と暮らした9年間を思い出しながら、季節ごとに分けて遊牧民の1日の生活リズムを示しておきたい。

 

春(2月末~5月末)

・朝5時頃起床
・食事の用意(祖母)
  ※塩味の乳茶、肉うどん、茹で肉、揚げパンなど
・ゲルの掃除(私)
  ※絨毯の掃除、オン(屋根)、ハナ(壁)、家具の埃取り
・家畜の世話(祖父母)
  ※家畜への水やり、仔畜の寝床の掃除、新しい寝床の用意など
・ウシの放牧場所を探す(祖父)
<春のみ行うこと>
・弱った家畜*2の世話(祖父母)
  ※干し草を与える、立ちあがらせる、寝床の掃除
・仔ヒツジ、仔ヤギ、仔ウシの世話(祖父母、私)
  ※乳をのませる、干し草を与える
・牛糞を集める(祖父母)
・ヒツジ・ヤギの去勢(村人全員)

 

夏(6月初め~8月末)

・朝4時頃起床
・食事の用意(祖母)
・ゲルの掃除(私)
・家畜の世話、放牧(祖父母)
・仔ヒツジ・仔ヤギの放牧(アイルのなかの当番の子ども)
・ウシの乳しぼり(祖母、私)
  ※朝晩2回、20~30頭
・ヒツジ、ヤギの乳しぼり(祖母、私)
  ※昼1回、50~60頭
<夏のみ行うこと>
・羊毛を切る・ヤギの絨毛を櫛で梳き、集める(村人全員)
・乳製品(チーズ、牛乳酒、バター)を作る(祖母)
・柳で柵や日常用具を作る(祖父)
・2歳ウシの去勢(村人全員)

 

秋(9月~10月末)

・朝4時頃起床
・食事の用意(祖母)
・ゲルの掃除(私)
・家畜の世話、放牧(祖父母)
・毛皮なめし、裁縫ごと(祖母)
・乳製品(クリーム、チーズ、牛乳酒)を作る(祖母)
<秋のみ行うこと>
・冬営地の家畜柵、ゲルの補修(祖父、私)
・越冬用飼料になる草を刈る(村人全員)

 

冬(11月~2月中旬)

・朝7時頃起床
・食事の用意(祖母)
・ゲルの掃除(私)
・家畜の世話、放牧(祖父母、私)
・牛糞の片づけ、ウシの寝床の用意(祖父母)
<冬のみ行うこと>
・毛皮で衣服を作る(祖母)
・ウシ、ウマなどの革で革紐を作る(祖父)
・ラクダの毛、ウマの尾やたてがみなどで紐を作る(祖母)

 

遊びと学び

 子どもたちにとって、遊牧生活は仕事であると同時に遊びであり、学びでもあった。トゥグルグ・アイルには私と同年代の子どもが3人おり、よく連れ立って仔ヒツジ、仔ヤギの群れ*3を放牧しに行った。そんなときには、砂でゲルの模型をつくって帰路に着くべき時間を計ったものだった*4。ゲルに差し込む光が照らす場所で時を計ることはさきほど紹介したが、それと同じことを砂の模型で行うのである。つくりかたは簡単である。乾燥した砂を集め、湿った砂で覆い固めてゲルのかたちに整える。側面に入り口を空けてなかの砂を掻き出し、ゲルのトーノ(天窓)にあたる頂点に穴をあける。壁を薄く、なめらかにするとより細かく時刻を計れるようになる。いつも祖父が座っている場所や家具の位置を想像しながら、頂上から差し込む陽光が照らす位置を見るのである。

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「砂のゲル」 筆者作

   遊牧民の子どもと街の子どもの遊びは、根本的に異なる。場所や季節に合わせた遊びの方法を考え、道具も自分たちでつくらなければならない。夏には草原に出てボルガソンメル(柳の枝をウマに模した乗馬ごっこ)をしたり、水たまりを見つけてはオスンポー(水鉄砲)で撃ち合いをして遊んだ。冬には表面が凍結した砂丘でスキーを楽しんだり、ラクダの糞をボールに見立てて蹴り飛ばしたりした。外で遊べない厳冬期にも、私たち子どもはゲルのなかで、ボグトゴロル(ヒツジやヤギの糞を駒にして行うボードゲーム)やシャー(ヒツジのくるぶし骨)を用いた双六などの遊びに熱中した。

 当時、すでに“人民公社”ごとに小学校が建てられ、さらに末端に位置づけられる“生産隊”にも移動学校が設けられていた。トゥグルグ・アイルに暮らすトーデ君、ボイナ君は学校に通っていたが、前回述べたように私は“反革命分子”だったため、一緒に学校に行くことはできなかった。2人はアイルに戻ると学校で習ったことを教えてくれた。そうして聞かされたことのなかには、私にとって発見や驚きにつながる知識が数多くあった。ゼロという数字との出会いも、そうしたなかでの印象深い経験であった。ある朝、トーデ君がヒツジとヤギを柵の外へと追いながら、その数を確かめていた。すべての家畜を柵から追い出したとき、トーデ君は「柵のなかはゼロになった」とつぶやいた。「どうして柵のなかにヒツジとヤギが『いなくなった』じゃなくて、『ゼロになった』なの?」と私が聞くと、トーデ君は「学校で先生からこう教わったんだ」と答えてくれた。トーデ君、ボイナ君のおかげで、私は学校に通わずとも1から500まで数えられるようになった。それでもやはり、ゼロだけは容易に理解することができなかった。「いなくなった」と言えばヒツジの群れが遠ざかっていく姿が目に浮かぶのに、ゼロという数字からは何も出てこない。「ゼロ」と口にする度に、一切合切を呑み込む暗闇を前にしたような、怖いけれどのぞき込んでみたい不思議な感覚にとらわれるのだった。

 遊牧民にとって、たくさんの数字が分からなくても生活に困ることはない。トゥグルグ・アイルのヒツジとヤギは合わせて500頭ほどいたが、家畜にはそれぞれ個性、つまり体格、角のかたち、体毛の模様、性格などの違いがある。熟練した遊牧民はそれを手がかりに、群れの状態でも個体識別をすることができた。また群れごとにも個性はあり、私の祖父は地面に残された足跡から、どのアイルの群れなのかを区別することができた*5。家畜を世話し、群れを管理するために、かならずしもその数を把握する必要はないのである。

 遊牧民の子どもとして育った私は、いまでも数字が湛える不思議な魅力に惹かれ続けている。

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「“シャー”(ヒツジのくるぶし骨)を使った遊び」筆者作成

*1:私がコンシャンダック沙漠で遊牧生活をしていた当時、国家による統制は末端社会にまで及び、モンゴルの伝統的な地域共同体であるアイルもまた、“人民公社”や“生産隊”へと組み込まれた。ごく少数を除いて家畜は公有化され、遊牧民は“人民公社”の社員として家畜の群れを放牧、管理することとなった。

*2:モンゴルの放牧は厳しい自然のなかで行われる。冬になると草が乏しくなるだけでなく、家畜はマイナス20~30度の寒さに耐えなければならない。寒さの厳しさや蓄えた脂肪の量などに左右されるが、毎年ウシの2~3割、ヒツジ、ヤギの1~2割は自力で餌を探すのが難しくなる。このような家畜はモンゴル語でブーレ・マラ(弱った家畜)と呼ばれ、人の手で世話をされる。

*3:乳搾りのため、仔ヒツジ、仔ヤギは成畜の群れから引き離されて別に放牧される。仔畜はアイルの付近で放牧され、親たちが帰る前に柵のなかに戻さねばならない。仔畜をアイルに戻すタイミングが早すぎると放牧中に草を食ませる時間が減り、遅すぎれば成畜の群れと合流してしまい混乱をきたす。帰路に着く時間の把握は非常に重要である。

*4:時計は高級品で、街でも幹部や富裕層らの所有するものだった。手動のスイス製の時計がほとんどだったと記憶している。アイル周辺のほとんどの地域の家庭に時計はなかったが、懐中電灯とラジオは普及していた。私が時計を持つようになったのは、北京で大学生活をするようになってからのことだった。

*5:家畜は群れから離れてしまうことがときどきある。柳林や砂丘ではぐれることがあるため、アイルに戻らない家畜を探すためには足跡を手掛かりにする。これをモルデンと言う。

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