第71回 発酵のつながり

「エフ」

 モンゴルの草原で私を育ててくれたおばあちゃんは、「エフ」づくりの名手だった。エフとは、言葉の意味としては「はじまり」や「みなもと」に近く、この場合には、家畜の乳を搾れなくなる秋の終わりに、瓶に詰めてとりおかれるヨーグルトの上澄み液を指す。冬が去って、まずは羊、続いて馬、牛と次々に乳を出しはじめると、毛布にくるんだ瓶を出してきて、新鮮なミルクが入った木筒や革袋にエフを少しだけ注ぐ。すると、エフを混ぜたミルクにだけ不思議な変化がはじまる。放っておけば数日で腐って飲めなくなってしまうはずなのに、時間が経つほどに香りも味も引き立ってくる。さらに攪拌したり、煮立てたり、じっくり時間をかけて保管したりと手間をかけてあげれば、お酒、チーズやヨーグルト、バターなど実にさまざまな食べ物、飲み物がそこから生まれる。乳製品だけでなく、草原に自生するニラやネギ、カブの仲間にエフをかければ酸味が効いた漬物になるし、干し肉をつくるときにエフを塗り込んでおけば、しっとりした食感を残せる。エフは、決して数多くはないモンゴルの食材の一つ一つから、いくつもの味わいを引き出してくれる。意外なほど豊かな遊牧民の食生活のみなもとだと言ってもよいだろう。

 春になると、同じ生産隊の人たちがこぞってエフをもらいにやってくる。おばあちゃんのエフを使うと失敗が少なく、味もよくなるのだそうだ。とはいえ、みんなおばあちゃんのエフがもとになっているはずなのに、できあがる食べ物の味は家ごとにかなり大きく違う。エフによってはじまる変化は気まぐれで、おいしくなるよう導くには磨かれたセンスと技術が要るのだ。おばあちゃんは、ミルクが入った木筒や革袋の近くで耳をそばだて、ほんのわずかな音を聞き分けてその変化を捉えていた。私も真似をしてみて、たまに乳酒が入った革袋からシューっと泡が立つ音などが聞こえたりすると、目に見えない世界を垣間見たような気がしてドキドキしたものだった。


モンゴル、雲南、宍粟をつなぐ料理

 エフからはじまる不思議な変化と「発酵」という言葉が結びつくことを知ったのは、おそらく日本に来てからのことだった。テレビだったか雑誌の記事だったか、ヨーグルトが発酵食品として扱われているのを見て、なるほど、エフは発酵を促すスターターになっていたのだと合点がいった。発酵させることで健康によい食べ物ができる、という発想もそのときにはじめて意識した。そう言われてみれば確かに、放牧で疲れたときタルグという強烈な酸味の発酵乳を飲むと元気が出たものだ。

 おいしく、保存が効いて、さらに健康によい食べ物をつくる発酵というわざ。がぜん興味が湧いてきた。もともとエフによって醸し出される酸味は大好きだったので、新しい土地を訪れるたびに発酵食品を食べて回るようになった。シベリア、ドイツ、フィンランドのピクルスなど各地で発酵を活かした食べ物に出会ったが、とくに種類が多く、味わいも奥深いと思ったのは雲南だった。葉物野菜や根菜を乳酸発酵させた漬物は、そのまま食べるだけでなく、スープや炒め物に加えて調味料としても活躍している。味噌や醤油、黒酢の類もたくさんある。雲南が産地のプーアル茶も、長い年数をかけてゆっくり発酵させることで独特のおいしさを引き出したものだ。

 もちろん日本は、世界的に見ても発酵食品が豊富な場所だ。ぬか漬け、納豆、なれずし、味噌や醤油など、全国各地で盛んに発酵を操るわざによってつくられる食べ物が根付いている。つい食べものばかりに目をとられがちだが、実はきわめて高度な発酵のわざを駆使してつくられるのが、日本酒だ。

 宍粟市は「発酵のふるさと」として知られ、『播磨国風土記』によれば古くから麹を用いた酒造りが行われていたとされる。いまでも中心部には酒蔵が並び、風情ある街並みが残されている。そうした土地に移り住んだことにも縁を感じ、昨年から私自身も発酵のわざを身につけようと挑戦している。冬には思いがけず豊作だった白菜や大根でキムチをつくり、今年の春は裏山でタケノコをたくさん掘って、雲南風の漬物を大きな樽1つ分つくった。ひとときでは食べきれない量でも、発酵させることで少しずつ長く楽しめる。我が家には冷蔵庫が2つ、横置き型の冷凍庫が1つあるが、学生が大勢遊びに来るときなどはそれでも足りなくなってしまう。そんなとき、台所の片隅で保存できる漬物があると大助かりだ。

 最近では甕で牛乳を発酵させ、幼い頃に飲んだ発酵乳のタルグをつくることにも成功した。漬物や発酵乳、それぞれ少しずつ味わいの違う酸味を調味に使って、料理にバリエーションをつけることもできるようになった。コツさえ覚えれば、酸味をうまく使って塩味や旨味を補うこともできるので、野菜中心の料理でもそれなりに満足感が出せる。そのせいか、この1年あまりで約12キロのダイエットもできた。

 宍粟で創作した料理のなかで、発酵を横糸にモンゴルと雲南、そして日本がつながっている。そう感じることがある。発酵の魅力は、まだまだ私を捉えて離さない。

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ミルクを攪拌する木筒(筆者作成)

※次回は11/26(木)更新予定です。

 

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