第66回 「文盲から文明へ、その向こうへ①」

 今年の夏の初め、13年間を過ごした大阪を離れ、西播磨の山の麓での暮らしをはじめた。引っ越してからまだ2か月半だが、がらりと一変した日々のなかで、都会では目にも入らなかったこと、あるいはずっと忘れていたことがいかに多かったかを実感している。おおげさに聞こえるかもしれないが、「文盲から文明へ」と歩んできた私の人生は、ここにきてもう一度大きな転換点を迎えているように思う。

 本連載は、次回で最終回とさせていただく。舞台裏を明かせば、この連載をどこで締めくくるか、1年ほどのあいだずいぶん悩んだ。文明とは何か、という大きな問いに挑戦するつもりで始めた以上、はっきりとした答えを用意することはできなくとも、私なりの見方を言葉にして終えたかったからだ。それは想像以上に難しい試みで、正直なところまだまだ五里霧中なのだが、都会から山の麓に移り住んでからの時間のなかで、ようやく気持ちの整理だけはできた。文盲から文明へと向かった半生を振り返ってきた本連載の最後に、その道程を経てたどり着いた場所、そしておぼろげながら見えてきた「その向こう」について書かせていただきたい。

 

山の麓に引っ越して

 大阪大学で担当してきたフィールドスタディ・プログラムは、今年で10年目となる。この節目をきっかけに、私はフィールドスタディを応援してくれる方々とともに“北の風・南の雲”と名付けて一般社団法人を設立し、これまで参加してくれた学生たち、そしてモンゴル、雲南、日本の各地でお世話になってきた人たちとのつながりをさらに深めていくための活動をスタートさせた。前回、前々回の連載で書いたように、立場や地域を超えて人と人をつなぐには、目的や利害を調整していくことよりも、一緒に食べたり飲んだりしながら楽しむ機会をつくることの方が大切だと、私は考えている。だから、法人を立ち上げて活動を広げるにあたって、まずは肩の力を抜いて楽しもうという気持ちになれる場所を探すことにした。

 登記手続きの上では、大阪で住み慣れたマンションを法人事務所としても問題はなかった。しかしそれでは、学生たちが集まって自由に議論したり、モンゴルや雲南からお客を招いてもてなすには手狭だし、都会の空気はリラックスするのには向いていない。どこかよい場所はないかと考えたとき真っ先に頭に浮かんだのが、国内でのフィールドスタディ・プログラムを通じて幾度となく訪れた兵庫県宍粟(しそう)市の森の風景と、そこで思い切り羽を伸ばす学生たちの笑顔だった。山のなかの小学校で長く先生を務められ、廃校になってからも体験型宿泊施設に生まれ変わらせて見守り続ける藤原誠先生をはじめとして、これまでのプログラムでお世話になった方々とのご縁もある。大阪から直通バスで1時間半と、学生たちが集まるにもさほど不便ではない。新たな出発の拠点として、これ以上ふさわしいところはないと思った。

 法人設立のための手続きに追われる傍ら、物件探しのため宍粟市に足を運ぶようになった。高速道路を降りてすぐの中心街はアクセスが良く、酒蔵と町屋が並ぶ雅な雰囲気の街並みも気に入った。しかし、森や川から距離があって虫や動物の気配が遠いのが少し残念で、十分な間取りの物件も少なかった。何度か空振りが続いて焦りはじめた頃、この連載を読んで私たちの活動を応援してくださるようになった宍粟市商工会の長田博会長が、市街からはちょっと離れているけれどと前置きをしたうえで、いい家が見つかったので紹介しましょうかと申し出てくれた。ふたつ返事で案内をお願いし、さっそく見に行って一目惚れしてしまった。小川に沿って田んぼが連なる谷の縁、緑の濃い森を背中にして建つ、門構えも立派な屋敷だった。400坪あまりの敷地には、見事な枝ぶりの庭木と石畳が整った庭園に加えて、家庭菜園というには広すぎるほどの畑があり、森のきわには柿や栗、孟宗竹が並ぶ雑木林まで広がっている。ここならばあれもこれも、やりたいことが何だってできるぞ。一気にイメージが膨らみ、わくわくする気持ちになれる場所だった。

 心躍る場所との出会いが、ずっと眠っていた遊牧民の血を刺激したのかもしれない。こんなに素敵な場所だ、事務所にするだけではもったいない。どうせなら、私もおまけにここに移り住んでしまおう。そう閃いてしまった。思い立つと居ても立っても居られず、半月ほどの間にばたばたと引っ越しを済ませ、山の麓での暮らしをはじめた。

 

田舎暮らしの手ごわさ

 友人や学生、大学の関係者などに引っ越しを知らせると、ほとんど一様に驚きの反応が返ってきた。急転直下で決めたせいもあったが、山に囲まれた地域に移り住むと知ってさらにびっくりするようだった。都会と違って田舎は買い物も近所づきあいも大変ですよとか、大学から遠くなってしまって不便でしょうと気遣ってくれる人もいれば、さてはコロナ疎開ですねと勘繰る人もいた。私はその度に、もともと草原で育ったのだから田舎暮らしが性に合っているんですよと答え、本音としても生活そのものに関する不安はさほどなく、楽しみの方がよほど大きかった。

 ところが実際に移り住んでみると、たしかにさまざまな不便と向き合わなくてはならないことを思い知らされた。ちょうど梅雨入りの頃に引っ越し、まず直面したのは広い敷地にところ構わず生い茂る雑草との競争だった。ご近所では庭や畑をきれいにしているのに、私たちの家だけが草ぼうぼうでは迷惑になってしまう。手で抜いたくらいでは焼け石に水にしかならず、草刈り機を買ってきて少しはましになったが、一通り刈り終える頃には、最初に手を入れたところの草が伸びてしまっている。夏が終わるまでの辛抱だと自分に言い聞かせ、いたちごっこを続けるほかないのだ。

 市街地までおよそ4キロの距離にも、思いのほか苦労させられる。私は車を運転できないので、買い物には自転車で行くしかない。荷台に乗らない大きな家具を買うには宅配を頼まねばならないし、雨降りが続けば冷蔵庫の中身も寂しくなる。街には気の利いた居酒屋があるのに、真っ暗な夜道を小一時間も歩いて帰らねばならないと考えると、どうしても足が遠のいてしまう。

 盲点だった田舎暮らしの手ごわさを前に、しばらくは四苦八苦の日々が続いた。まだ慣れない雑務に追われる一方、もちろん法人としての活動や大学の仕事もこなさねばならず、どうしても手が回らないところが出てイライラしてしまうことが多くなった。しかし、本当にありがたいことに、そうした鬱屈も長くは続かなかった。折にふれて様子を見に来てくれる長田会長や、畑で採れた野菜をおすそ分けしてくれる近所の人たち、そしてなにくれとなく手伝いを申し出てくれる学生たちに助けられながら、少しずつ生活のリズムを取り戻すことができたのだ。おそらく当初は、周りの人たちの心配をよそに田舎暮らしに飛び込んでしまったことへの気負いから、ひとりで何もかも背負いこもうとしていたのだろう。できないこと、分からないことを自分で認め、誰かに頼れるようになって、ようやく新しい環境に馴染むきっかけを得たように思う。

 

つくること

 実は不便なことのなかにも、暮らしを楽しむきっかけが隠れている。田舎暮らしに慣れてくるうち、だんだんとそう思うようになった。スーパーが遠くてなかなか買い出しに行けないから、畑に植えたピーマンや小松菜、チンゲンサイの出来具合がそのまま毎日の食卓を左右する。遊牧民の生まれだから畑仕事のことは分かりません、などとうそぶいていてもはじまらない。野菜づくりが上手なお隣さんや、農学を専攻する学生にいろはを教えてもらって精を出すうち、野菜の成長をみるのが楽しみになっていた。旬の時期に同じ種類の野菜がたくさん採れると、今度は食べ飽きないよう献立を思案しなければならない。あるものを無駄にせずおいしく食べるための工夫も、料理の楽しさを引き立ててくれる。

 自分の手を動かしてつくったものには、お金で手に入れたものにはない何かが宿るように思う。法人の活動を手伝ってくれている阿部朋恒さんは、ここにくるとデスクワークはそこそこに日曜大工に没頭し、試行錯誤しながら家具をつくりだした。私は、家具が必要ならば買えばいいのだから趣味は後回しにして仕事に専念してほしいと、内心では不満に思っていた。しかし、少し不格好なテーブルや棚がひとつまたひとつと増えていくにつれて、どこかよそよそしさが残っていた空間が、ほっと落ち着ける「私たちの家」になっていくような気がした。

 モンゴルの草原にいた幼い頃の私は、祖父の手でつくられたものに囲まれ、祖母の手でつくられた料理を食べて暮らしていた。電気も水道もない「不便」な場所だったのかもしれないが、人生のなかでもっとも満ち足りた思い出はそこにある。あるものを使って、誰かのために手間暇をかけて「つくる」ことは、暮らしを豊かにするための秘訣のひとつなのかもしれない。

 

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