第64回 「宴(であい)①」

食べて、飲んで、わかる

 本連載第54回でも触れたように、私は水俣と出会ったことで多くを学んだ。その一つに、飲んで食べることで地域を知るというわざがある。はじめて訪れたときからずっとお世話になっている吉本哲郎さんは、そこに「あるもの」のよさを見つけることで暮らしが豊かになるという考えを、地元学として提唱してきた在野の哲学者だ。あるとき、吉本さんに「山奥でうまい紅茶をつくっているやつのところに行くぞ」と誘われ、道すがら手土産にと焼酎を一本買っていくことになった。ついでに割材にしようと炭酸水を手に取ったところ、「お前、なんだそれ。いらないよ」と妙に語気強く言われ、仕方なく陳列棚に戻した。そのときは酒の飲み方くらい自由にさせてくれてもいいじゃないかと思ったが、夜になっていざ飲み始めると、すぐに吉本さんの言葉に合点がいった。囲炉裏の炎に舐められてしゅんしゅんと音を立てる鉄瓶のお湯で紅茶を入れ、黒麹の効いた焼酎にたっぷり注ぐ。湯呑でぐいとあおると、11月の山歩きから戻って冷え切っていた身体にも火が灯るようだった。心地よくおかわりを重ねる私に、吉本さんは満足そうに「まぁ、そういうこと」と頷いた。食べ物でもお酒でも、たばこやその他の嗜好品でも、その土地でとれたものを、その場所に暮らす人と、その地域のやり方で楽しむのが一番いい。とても単純な話だが、はっとさせられる経験だった。

 

大興安嶺での気づき

 はっきりと意識してはいなかったが、それは私自身がフィールドワークのなかで実践してきたことでもあった。思い返してみれば、シベリアでも雲南でも、私にとって大切な出会いのほとんどは宴の席からはじまっている。大興安嶺のエヴェンキ人のことを調べはじめた頃、駆け出しのフィールドワーカーだった私は、準備していた調査計画をこなそうと寝る間も惜しんで聞き取りを繰り返していた。ところが、手間をかけた分だけノートは埋まっていくものの、相手との距離を縮めることはなかなかできなかった。あるとき、この地域では途絶えかかっていたクマ狩りの成人儀礼に挑戦する若者が現れたというので、私も同行させてほしいと願い出た。マオシャというその若者は、雪のなか冬眠中のヒグマを探し出し、ハンターの援護を受けながらではあったが、見事に仕留めて大人の仲間入りを果たした。

 仕留めたクマはその場で解体され、肉は狩りに同行した男たちで腹に収めることになった。本来ならば親戚にも分けるべきなのだが、野生動物保護の政策が出されてからはクマ狩りが露見すると罰金を払わねばならないため、肉を集落に持ち帰ることができなくなったのだという。冬眠に入って間もない時期の肉にはまだたくさんの脂がついており、茹でると溶けだして大鍋2つ分もとれた。ハンターたちは、それをお椀ですくってうまそうに飲んでいる。私にもお椀が回ってきたが、むせ返るような獣の匂いにあてられたのか、一口飲み下したところで気分が悪くなってしまった。とはいえ、飲み残しを鍋に戻すのも気が引けるし、それとなく向けられたいくつもの視線も感じる。仕方なく我慢して飲み終えると、すかさずお椀を奪われておかわりが用意されてしまった。こうなったら腹をくくるしかない。ぐっと一気に飲み干し、空になったお椀を隣の男に押し付けた。男はそこではじめて笑顔をみせ、「よくやった」と言ってくれた。この日を境に、ハンターたちは飲み会があるごと私を誘ってくれるようになり、私も調査を忘れて打ち解けた付き合いができるようになった。すると不思議なもので、それまでに骨身を削って集めた聞き書きよりも、気を緩めて楽しみながら耳にしたことの方がよほど発見的で、何より面白いというおまけまでついてきたのだった。

 

忘れられない宴

 もともと食いしん坊だったということも大きいのだろうが、それからというものフィールドでは食事や飲み会の席に招かれるのが楽しみになり、世界中でそれこそ数えきれないほどの乾杯を重ねてきた。なかでも、雲南省の山深い地域に住むハニ族の村でお呼ばれした宴は、とくに深く印象に残っている。2014年の夏、この連載でも協力してもらっている阿部朋恒さんが当時住み込み調査を行っていた村を、大阪大学の同僚であり親友の上須道徳さん、修士課程の宇都宮さんと3人で訪問した。チャーターした車を降り、険しい山道を延々と下ってようやく村にたどり着くと、阿部さんが住んでいる家ではちょうど鶏とカモを捌いているところだった。土間で薪を焚いてしばらく寛いでいると、歓迎の準備ができたと屋上のテラスに通された。ちゃぶ台のような丸テーブルに、おかずを盛りつけた茶碗がところ狭しと並べられている。里芋、カブ、クワイなどの根菜と小松菜を大きくしたような葉物野菜の煮つけ、こんにゃく、そら豆の豆腐、何種類もの香草が入ったつけ汁、そして捌きたての鶏とカモの塩ゆで。それらのすべてが、村の周囲で育てられたものだという。喉が焼けるように強い蒸留酒も、家畜用に栽培したトウモロコシの余りでつくられる。聞けば、皆で囲むちゃぶ台も椅子も老人たちが竹を編んでこしらえたもので、住んでいる家も田んぼの土を乾かしてつくったレンガでできているという。言われるまま席に座って飲み食いするだけでも、五感を通じて村の暮らしや周りの環境のことが分かる。おいしく地域を理解できる場をつくれるなんて、ハニ族はもてなし上手だなと感心させられる。阿部さんにハニ族の名前をくれた名づけのお父さん、お兄さんのモジョさんと私たちのほか、近所の男性が入れ替わり遊びにやってきて、お猪口サイズのグラスに1杯か2杯の酒をちびちび飲んでは去っていく。ときおり詩を吟じているかのように穏やかな抑揚の掛け合い歌が飛び出し、私も思わず故郷の民謡を披露していた。ゆっくりと夕日が沈み、星が瞬きはじめても宴は続いた。

 翌朝、出発の準備を整えて別れの挨拶をしに行くと、モジョさんが子豚の毛をむしっているところに出くわした。お兄さんには何度も予定を伝えていたのだが、「もしかすると気が変わるかもしれないから、ちゃぶ台を並べる準備をしていただけ。気にしないでいいよ」という。モンゴルの遊牧民も羊を屠って大切な客を迎えることはあるが、帰ると分かっている人のために家畜をつぶすなど聞いたことがない。もてなしの心の大きさに驚かされ、それでも去らねばならず申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、そのおかげでモジョさんの顔はいまでも忘れられない。

 

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