第1回 はじまり

 内モンゴルに生まれ、草原で育てられた私は、文字を知らないまま少年期を過ごした。正しくいえば、文字というものの存在は知っていたが、それはお坊さんや役人などごく一握りの人だけが操るかなり特殊なわざであって、私や私の周りにいた遊牧民の暮らしとはあまりかかわりのないものと思って日々を過ごしていた。

 それから何十年かが経った。私は母語であるモンゴル語のほか、思春期を迎えるころに漢語を話せるようになり、大人になってからはさらに日本語、ロシア語、ドイツ語、英語、そしてシベリアに住むエヴェンキ人たちの言葉を学ぶ機会を持てた。幼かったころは想像もできなかったことだが、いまでは読み書きができるようになったばかりか、本を読むのが大好きで、おまけに人類学者として論文や本を書くことを仕事の一環にしている。

 実はいまでも、そんな自分自身をふとした瞬間に省みては、ずいぶん遠いところに来てしまったような、別世界に生きているかのような不思議な感覚にとらわれることがある。それは、単に地理的な意味で故郷から離れた土地に来てしまったという感慨ではないし、身の回りの環境や習慣にギャップを覚える違和感とも、また少し違っている。そこにぴたりと当てはまる言葉は、私の知るいくつかの言語の辞書をひっくり返しても見あたらない。ただもしかすると、内モンゴルのゲル(移動式の家屋。木製の骨組みに羊毛のフェルトを覆って建てる)で暮らしていた頃の私ならば、その感覚をさらりと口にできたのではないかという気がしている。文字を知らぬ幼い私は、確かに私ではあるのだが、いまの私にはその少年の思考を追うことができそうにないからだ。当時見た草原や空と雲、夢中になっていた玩具や遊び、一緒に過ごした友だちや馬の姿は鮮やかに蘇るのに、それを見ていた自分の視線を辿りはじめると、とたんに頭のなかが乱れていってしまう。少年時代の思い出には、仔馬とともに草原を跳ねまわり、雁の群れとともに空を駆けるような自由な感性の手触りが確かにある。ところが、少年が暮らしていた世界がどんなだったのかを語ろうとすると、途端に言葉を紡げなくなってしまうのである。草原をあとにした少年は、文字を知ったことで新たな一歩を踏み出した。しかし、そこで歩み始めたのは、もといた場所に帰ることが許されない一方通行の道だったのかもしれない。

 

本との出会い、人類学との出会い

 この連載では、いわゆる「文盲」だった私が文字を学び、さまざまな本との出会いを通じて世界を広げていった、その経験を綴らせていただきたい。その物語は、都会での暮らしを始めた少年が、文盲から「文明」への階段を駆け上ろうとがむしゃらに走りはじめるところからはじまる。内モンゴルから北京、そして日本へ。草原から都会へ、そして世界のなかでも先頭集団を行く国へ。私はただ、はるか遠くにある「文明」へと進んでいけばよかった。しかし、いつの頃からだろう。ずっと追い求めてきた「文明」が行き詰まりをみせていることに気づいてしまった。科学技術はいまでも休まず進歩を続けているし、合理性と効率性を是とする風潮はますます社会を覆いつつあるが、すべての人々が幸せに暮らせる世の中は実現しそうにない。われわれは、幸せそのものを求める感覚を忘れてはいないだろうか。ではどうすればよいのか、どうすべきなのか。誰しもが納得する確かな答えは、世界中を探しても見つからないだろう。

 われわれが享受している「文明」――人間の暮らしを便利なものにする科学技術や、複雑化した社会を支える効率的な制度など――は、地球上の自然と文化の多様性を犠牲にして発達してきたという側面を確実にもっている。さらに、行き過ぎた合理化の波はかえって現代人を縛って疲弊させ、とくに都会に住む人々の職場や家庭から生きることの楽しさを奪っているのではないかとも感じる。いま私たちはどこに向かおうとしているのか。本シリーズでは、「文盲」というもっとも離れたところから「文明」を目指してきた私の経験を振り返りつつ、この問いを読者のみなさんと一緒に考えていきたい。

 

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「モンゴルの草原」 筆者作成

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「少年期のわたし」 筆者作成

 

 すでに述べたように、私は内モンゴルの草原地帯で遊牧民の子どもとして育てられたが、思春期を迎える頃に北京へと移った。20代の後半に来日してからは金沢大学大学院で8年間勉強し、人類学と出会い、その後大阪大学の教員になって10年以上になる。その間、ドイツのボン、ロシアのグラスノヤルスクやシベリアでも仮住まいをしてきた。そこで経てきた分岐のほとんどは偶然に左右されていたし、そもそも20世紀後半という激動の時代の中国で前半生をおくった私にとって、自らの生き方を自由に選びとることなど不可能だった。それでも、時代と偶然が重なり合う波の合間を漂流しながらも舵を握る手を離さなかったのは、その時ごとに目指すべき方向を示してくれる本との出会いがあったからだったと思う。内モンゴル自治区芸術専門学校の同窓生が寮でこっそりと朗読してくれたスタンダールの『赤と黒』、“改革開放”を迎えた中国の将来を考える道しるべとなった中江兆民の『一年有半』『続一年有半』や福沢諭吉の『文明論之概略』『学問のすゝめ』のほか、近代という時代を見つめ直す視点をくれたカール・マルクス『資本論』とマックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、そして人類が向かう先を考えるきっかけとなったレイチェル・カーソンの『沈黙の春』、ローマ・クラブの『成長の限界』、エルンスト・シューマッハーの『スモールイズビューティフル』など、ときに生き方そのものを変えてしまうほど強い力を与えてくれる本との出会いもあった。この連載では過去の私を振り返りつつ、そこで出会ったたくさんの本についても逐次紹介していく。

 ただし、はじめの数週間は本と出会うまで、つまり「文盲」だったころの話を書かせていただこう。すでに述べたように、私は遊牧民として読み書きを習わずに育てられた。しかし、内モンゴルを含む中国全土を巻き込んで吹き荒れた文化大革命の時代が終わりを告げるとともに、私の身の回りは急に慌ただしくなっていった。それまで想像したこともなかったような大都会に連れてこられ、学校に入れられた。読み書きができないからというので、芸術専門学校で舞踏を専攻することになった。数え年で11歳になって間もなくのことだった。このときから私のなかで、自分自身を「文明化」するという試みが始まった。それはたとえば、都会での生活に身体を合わせ、何事も合理的かつ科学的に考えるよう必死に努めるということであった。都会の学校は、そこで新たに「国語」として学んだ漢語で思考し、表現する習慣が求められた。しかし同時にそれは、母語であるモンゴル語を意識の片隅に追いやることであり、草原で羊を追っていた頃の思い出を片端から否定していくことでもあった。

 冒頭で書いたように、いまの私と草原で暮らしていた幼い私の間には、霞がかかったような隔たりがある。文字を学ぶ、すなわち「文盲」から脱するということは、それほどに大きな変化なのだと思う。次回は、なぜ私が文盲として少年時代を送ることになったのか、なぜいまは文盲ではないのか、そして文盲とは何かを私なりに述べてみたい。

 

読者の皆様へ

 言葉は、人間の思考の深いところに居座っている。物事を考えるとき、モンゴル語を頭に浮かべるのが適していることもあるし、漢語あるいは日本語でしか表現できないこともある。日々の暮らしや大学の授業では日本語を使っているが、ベッドのなかでひとり思案にふける時間など、いまでもモンゴル語や漢語で考えていることが多い。そういうわけで、この連載企画の話をいただいてからしばらくは、書かせていただくべきかどうかずいぶん悩んだ。本との出会いを通じて新しい考えに触れることができる、すぐにではないかもしれないが、やがて生き方も変わっていく。そのことを幅広い読者に、とりわけ活字離れが進みつつあるという若い世代の人たちに問うてみたいという想いは掻き立てられたが、それを日本語できちんと伝えきれるのかという不安も強かった。ある程度のルールと作法にしたがって論理的に書けばよい論文とはわけが違う。読者のみなさんに貴重な時間を割いて読んでいただく価値があるものを書けるのか、なかなか自信が持てなかった。

 しかし、2016年の『社会人類学年報』に掲載された拙稿を執筆するにあたってお世話になった首都大学東京大学院の阿部朋恒さん、弘文堂の三徳洋一さんに今回もご協力いただけることになり、思い切ってお引き受けすることにした。やると言ってしまったからには、二の足を踏んではいられない。私の筆が及ばないときは、思いつくままを語って文章にしていただく。そのかわり格好をつけず、包み隠さずありのままをお話する。読者のみなさんには、これから一年間どうかお付き合い願いたい。

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