第61回 「地域に学び、地域とかかわる④」

▼前回までの記事はこちらです

 

  野蛮だと眉を顰めて指さされることもあれば、自由奔放で素晴らしいと羨望の目を向けられることもある。そういう意味では、「不良」と少数民族は同じような立場に置かれているのかもしれない。この連載の前半で書いたように、草原に生まれ文盲から出発した私は、「原始的で野蛮な人たち」というレッテルから逃れ、文明へ、世界の中心へ近づこうとあがき続けてきた。しかし、ようやくたどり着いた場所にあったのは、袋小路に陥った課題をいくつも抱え、むしろ「伝統的で調和的な人たち」の智慧に活路をみいだそうとする社会だった。

 長い堂々めぐりを経て、私は中心に居座り続けていては見えないこと、周縁の視点に立ってこそ見えることの大切さを確信できるようになった。だからこそ、「不良」を育てるフィールドスタディ・プログラムでは、都会を離れて豊かな自然あふれる地域に学び、地域の人たちとかかわるための仕掛けづくりに力を注いでいる。

 

ガラテルの死

 日本でもそうだが、スローガンが大好きな中国ではとくに、自然を愛しましょう、自然を守りましょう、というような標語があふれている。学校の授業や教育番組などを通じてそれを「学ぶ」ことは確かに大切だが、自然の魅力には体験しないと分からないことがたくさんある。私は人類学者だが、どうしても草原や森に足が向かってしまうため、人の少ないところばかりをフィールドにしてきた。草原や森を歩くと、抱え込んでいたストレスが嘘のように消え去り、心が安らぐ。クマやオオカミに出くわしたり、川に流されそうになったり、寒さに凍えたり、どうしても危険がつきものだが、それでも草木や動物の魅力にはかなわない。素敵なかたちの山が見えれば登ってみたくなるし、いい匂いのする原っぱを通り過ぎれば昼寝でもしたくなる。そうした心の躍動は行ってみて初めて感じとれるものだし、理詰めで説明できるものでもない。

 自然のなかで過ごす経験は、ときに哲学的な問いに結びつくことすらある。2008年から2011年にかけて、私は何度か調査のためシベリア東部のレナ川上流域を訪れ、エヴェンキ人のトナカイ放牧に同行した。厳しい自然環境のなかで知恵を働かせ、必死に生きているのは人間だけではない。たとえば、森にはときにトナカイの群れを襲撃するオオカミがいる。同行した人たちが「ガラテル(斑点)」と呼ぶ1匹の右前脚は、白い毛がところどころ禿げてまだら模様になっていた。何度も銃弾で撃たれ、回復した跡なのだという。私は彼に3度遭遇した。はじめは森林を歩いているとき、次に川沿いで休憩していたとき、ふと彼の存在に気づいた。彼も私を見ていた。オオカミの眼には、直視すると脳裏に突き刺さるような迫力がある。叫び声のような訴えが心に響いてくるような、にわかには忘れがたい魔性を帯びている。しかし、ガラテルの眼は違った。鋭さはなくむしろ穏やかで、優しさのようなものすら感じ取れた。

 オオカミはめったに人間を襲うことはないが、いつもトナカイをはじめ家畜を狙っている。そのため人間の目には脅威として映り、排除の対象にもなる。「このあいだ、あいつにトナカイを3頭食われちまったんだ。畜生め!」あるとき放牧に同行していたエヴェンキ人は、そう吐き捨てるように言っていた。

 3度目にガラテルに遭遇したとき、私は周りの人たちの動きに合わせて彼に銃口を向けた。撃てという言葉に反応し、ひきがねにかけた指に力が入る。正確にねらいをつけていたわけではなかったが、弾はガラテルの首の付け根やや右側に命中した。ひときわ高く飛びあがり、一回転して地面に倒れると、彼はそのまま動かなくなった。銃声の余韻が消えると、重苦しい沈黙が訪れた。さっきまで「やつを撃て!」と叫んでいた男たちも、しわぶきひとつせず静まり返っていた。沈黙はその日の午後いっぱい続いた。死んだガラテルを着古したシャツと樹皮でくるみ、その場に埋葬した。涙が止まらなかった。生前のガラテルに対して特別な感情を抱いていたわけではないが、彼の死を通じて運命が重なり合うような感覚があった。

 

f:id:koubundou:20200305084458j:plain

2020年2月22日、「不良」仲間でもある同僚の娘さんからいただいたプレゼント。 まったくの偶然だが、とくに眼にガラテルの面影を感じた。

 人間が主役の世界のなかで、人間が決めたルールに従わずに己を貫くオオカミは、まさに「不良」だ。しかし、何度も撃たれながらも森を離れず、ついに銃弾で殺されたガラテルと、「不良」だったことをひた隠し、文明へと向かっていった私は違う。

 ガラテルの死をみて流れた涙は、もしかすると私自身への憐憫が溢れ出たものだったのかもしれない。草原から都会へ、周縁から中心へと向かいながら、どこにも馴染めない感覚とともに生きてきた。読み書きや衛生観念、身だしなみやマナー、食べ物の嗜好まで必死で身に着けたが、息苦しさはつきまとった。そうしてまでたどり着いた先で、いったい何をやっているのだろう。きれいな服を着てたくさんの肩書を持つ人が、金もうけが一番大事だといってはばからない。大げさな言葉で立派なことを言っていた人が、小さな利益ばかり気にしている。優しそうだった人が、立場が変わるだけで急に冷たくなる。一緒にやろうと言っていた人たちが、お互い時間とお金の負担やリスクがない範囲でしか協力し合わない。はじめのうちは違和感をぐっとこらえていたはずなのに、いつの間にか私自身がそういった「文明」の作法を身に着けてしまっているのではないか。ガラテルの死は、自分がどこにいるのかをあらためて考える契機にもなった。

 

教育の危機と希望

 シベリアでもモンゴルでも、家畜をつけ狙うオオカミは敵であり、人間は彼らと対峙すれば命を奪わなければならない。それは自らが生きるために必要なことであり、利己的な行為だと言える。しかし、ガラテルの死の場面が物語るように、彼を殺した人間の感情を揺さぶり、記憶に残る出来事でもある。それは、人間にとって有害な動植物や昆虫などを「駆除」するといった言葉で覆い隠してしまえるような無感動で無表情な行為ではない。だからこそオオカミはいまなお人間の目の前から消え去ってはいない。これはもちろん、モンゴルやシベリアの人たちが高い自然愛護のリテラシーを持っている、という単純な話ではない。たとえば、モンゴルでは草の根っこを食べ散らかすナキウサギが増えすぎたのでやっつけようというキャンペーンがはられることがあり、実際に遊牧民たちはあっけなく可愛い小動物をたたき殺す。とはいえおそらく彼らは、ナキウサギの姿がまったく消え去った草原を見たいわけではないし、機械や薬を使って徹底的に「駆除」するという行為に手を貸そうとする人は少ない。利己的であっても、合理性や効率に引きずられてたがが外れてしまうことのない塩梅。それはやはり、自然のなかで過ごし、動物と向き合う経験のなかでこそ養われるのではないだろうか。

 教育の現場では、はっきり言葉にはできないそうしたバランス感覚を養う必要があると思う。野性的な思考を育む仕掛けが欠けていると言い換えてもよい。決められた目標にむかって要領よく仕事をこなすための能力だけを伸ばしていては、いくら多様性が大切だとか、持続可能性な社会をつくろうといっても、それを担う人がいないということになってしまう。量より質、効率より創造性が大切だといった言葉はよく耳にするが、それに見合った教育はまだどこにも根付いていないように思う。

 あくまで私の経験に即せばだが、そのためには少なからず文明的でない方法が効果的なことがある。つまり、世界中にいる「不良」に学び、かかわることで、千差万別の「不良」を育てていくということだ。オオカミのように孤独に生きる「不良」、遊牧民のように居場所を定めない「不良」、けんかで絆を深める「不良」、宴会に心血を注ぐ「不良」。学生たちが自分を偽らずに共感できる「不良」との出会いは、どの地域にもかならずあるはずだ。

 周縁に立ったときにみえる景色は1人1人違うはずだから、そこに模範解答はなく、したがって合理性やリスクといった言葉とは相いれない教育だ。しかし、少々荒っぽい方法だからこそ、自分も他人も大切にできるたくましい人間を育てることができるのではないだろうか。

 

 

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.