第4回 文盲に生きた時代③「遊牧の日々がつなぐ人と自然」後篇

▼前回の記事はこちらです

 

ツァガンサル(お正月)

 これまでにも述べたように、1960年代から70年代にかけての中国では、物資に乏しく貧しい時代が続いていた。全国でたくさんの人々が栄養不良に陥り、飢えて死んでいく人も絶えなかった。そんな時代にありながら、私が暮らしていたトゥグルグ・アイルでは、伝統に根差した知恵を絶やさず家畜を大切に育て続け、その家畜のおかげで人間も飢えることなく生活を営むことができていた。日々の暮らしは決して豊かとはいえなかったが、年に何度かはごちそうを口にすることもできた。たとえば、冬の到来を前にして干し肉などの保存食を用意する時期には、ヒツジやウシの新鮮な肉をお腹いっぱい食べることができた。さらに、とくに子どもにとって一番待ち遠しかったのは、なんといっても甘いお菓子を存分に味わえるツァガンサル(旧暦のお正月)だった。

 ツァガンサルには、大みそかの晩に食べるピントースネーシュル(太い春雨、羊肉、野生ネギ入りのスープ)に始まり、ベンシ(餃子入りスープ)、ボーズ(薄皮で小ぶりの肉まん)などのごちそうが用意された。モンゴルの遊牧民は普段めったに野菜を食べないが、ツァガンサルのごちそうには漢人との物々交換で手に入れた人参や大根、じゃがいもなどが使われることもあった。子どもたちはさらに、ホーレーボダネーボーブ(粟を挽いた粉でつくった揚げドーナツ)*1や、べリグ(小麦粉のドーナツ、チーズ、ナツメ、干しブドウなどを積み上げたお菓子)*2など、普段食べられない甘いものを心ゆくまで楽しむのだった。

 ツァガンサルの思い出は、ごちそうやお菓子の味覚だけではない。近隣のアイルを訪ね歩き、久しぶりに会う子どもたちと遊べるのも楽しみだった。ツァガンサルの日には、年長者が暮らすゲルを訪問して挨拶してまわる習慣がある。日が昇る前の暗いうちに出発するので、子どもにとっては眠い目をこすりながら大人についていくのが大変だった。まだ寝ているうちに誰かの訪問を受けると怠け者と言われてしまうよ、とせっつかれ、睡魔とたたかいながら支度をしていたのを覚えている。ツァガンサルの挨拶には、この日のために仕立て直したきれいなデール(モンゴルの伝統衣装)*3、狐の毛皮の帽子、フェルト飾りがついた編み上げ靴*4で身を包み、やはり刺繍や色飾りのついた鞍とクツワを付け、きちんと毛繕いをしたラクダに乗って出発する。人もラクダも、一年でもっともおめかしする日なのである。

 友人のトーデ君とボイナ君のお父さんは、毎年みごとな体躯の去勢ラクダに乗って家々をまわっていた。私の家にはそれほど立派なラクダはいなかったが、馬の尾を編み込む美しい刺繍が施された祖父の手製の鞍は、誰しもが称賛する出来栄えだった。ゲルを訪問するときには放し飼いにされている猛犬に注意しなければならないが、ラクダは背丈が高いうえに、その背に乗る私も大きな強い鞭を持たされているので、怖いものなしだった。ツァガンサルの数日間だけは、“反革命分子”と呼ばれる寂しさや悔しさも忘れ、祝祭の浮き立つ雰囲気に身を浸すことができる時間だった。

 

ラクダのチャガンイング

 ツァガンサルの挨拶まわりで活躍するだけでなく、ラクダは寒さが厳しい季節の移動に欠かすことのできない乗用動物だった。馬はいったん疲れさせてしまうと、それに見合うだけの草を食べて体力を回復するまで休ませなければならないが、そもそも草が少ない冬から春にかけてはなかなか元気にならない。一方、ラクダは夏の間に2つのコブのなかに脂肪を貯めこんでいるため、食べ物が少ない季節でも体力が落ちにくい。また、背に乗る人は長い毛とコブで包まれるため、マイナス30度以下にもなるなかでも暖かく快適に旅ができるのだ。日本でもよく知られている「スーホの白い馬」*5のように、モンゴルには人間と家畜の絆を題材にした物語がたくさんある。意外に思われるかもしれないが、ウマと同じくらいラクダに関する伝承や昔話も多く、祖父母からそうした話を聞かされて育った私にとって、ラクダは豊かな感情を備え、ときとして人間と心を通じ合わせることもできる存在だった。

 なかでも私の心に残っているラクダに、チャガンインクという名の雌がいる。チャガンは白、インクは成熟した雌という意味で、縁起がよいとされる白い毛並みだけでなく、大きな体躯とコブを持つ美しいラクダだった。チャガンインクはほかの雌ラクダよりずいぶん遅く、8歳か9歳になって初産を迎えた。チャガンインクはやや神経質なところがあったので心配されていたが、出産は無事に終えることができた。祖母と一緒に見にいくと、母と同じく真っ白な小さな仔畜が立って鳴いていた。祖母はそれを一目見て、チャガンインクが自分の子どもを認識できていないと言い、仔畜が蹴られる恐れがあるからいったん母子を引き離すようにと指示を出した。

 モンゴルでは、人間と同じように家畜も、赤ん坊のうちは母からの愛情と庇護を受けて成長していくべきとされる。しかし、子どもを産んだ母のなかには、出産のときに我が子を認識できない、あるいは育児を放棄してしまうものも出てくる。私の祖母は、そうしたウシやラクダ、ヒツジなどに仔畜との絆を思い出させるのが得意で、しばしば遊牧民に頼まれては手伝いをしていた。祖母はこの時もその役目を引き受け、チャガンインクに寄り添って仔畜への愛情を引き出そうとしはじめた。まずチャガンインクを杭につなぐと、その乳房に触れながら短い節の繰り返しからなるまじない歌を歌いだした。チャガンインクは乳房に触れられるのを嫌がったが、しばらくすると落ち着きを取り戻していった。すると、祖母はチャガンインクに視線を注ぎながら搾乳をはじめ、仔畜の鼻やお尻にその乳を塗りつけていった。そのまま2時間ほども歌い続けるうち、気づけば祖母の頬には涙が流れ、チャガンインクの大きな瞳からも大粒の涙がこぼれていた。

 祖母はこの儀式を毎朝続けた。その想いが通じたのか、チャガンインクは次第に仔畜を受け入れはじめ、ついには自ら乳を与えるようになった。母子は群れに戻され、ほかのラクダとともに放牧されるようになった。チャガンインクの子どもは雌で、可愛いという意味のションボルと名付けられた。私はそれからしばらくしてコンシャンダック沙漠を離れたため、ションボルがどのようなラクダになったのかは分からないが、のちに聞いた噂では立派に成長し、ラクダの交換会で評判を集めて隣のアイルに譲渡されていったそうである。

f:id:koubundou:20180725141632j:plain

ラクダに乗るわたし(2008年、モンゴル国にて撮影)

 

*1:ボーブと呼ばれるドーナツは、ハレの日でなくとも軽食として食べることがある。しかし、ツァガンサルのホーレーボダネーボーブには砂糖とバターがたっぷり使われ、子どもの好きな甘いお菓子に仕上げられている。

*2:べリグはツァガンサルの挨拶を受けた側が、訪問客に土産として持たせる贈答品でもある。訪問客はショーマス(かばんのついた鞍)に納めて持ち帰るが、一日に10軒ほども挨拶をするために、たくさんのべリグが手元に集まる。私の祖母は、いただきもののべリグを崩して新しいべリグをつくっていた。

*3:実際には真新しいデールを仕立てるのは2~3年に一度だが、それ以外の年でもいったんトルグ(外側のシルク)をはがして繕い、襟の部分を洗ってきれいにし直す。毛皮を裏張りしたデールはとても暖かい。

*4:靴は祖母が仕立ててくれた。祖母はトーデ君の靴やデールも仕上げるほど裁縫上手だった。

*5:大塚勇三 (再話)・赤羽末吉 (画)『スーホの白い馬』福音館書店、1967年。

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.