第16回  受験勉強②「憧れと挫折、そして・・・」

狭き門へ

 大学受験を目指し始めて約1年が過ぎた。私はようやく中学生用の教材を一通り学び終え、いよいよ受験勉強の本丸ともいうべき高校の学習内容にとりかかりはじめていた。春節を少し過ぎたある日、ひと足先に受験を突破して内モンゴル師範大学のモンゴル文学部に進学していたシンバイル君が久々に帰省し、母校のシリンゴル盟蒙古族中学校で後輩たちに体験談を講演するというので、私もこっそり聞きに行くことにした。シンバイル君のほか、北京師範大学で地理学を学ぶハイサンさん、数学を専攻するボルドさんが登壇し、受験のコツや学生生活の様子、将来の夢などについて話してくれた。洗練された洋服に身を包み、都会ならではの洒落たエピソードを交えながら話す3人の先輩たちは、少し前まで高校生だったとは思えないほど大人びて見えた*1。学問を通じてどのように社会貢献すべきか、中国の発展のために何ができるのかといった大きな問いをそれぞれが持っていたことも、壇上に立つ彼らと自分との隔たりを際立たせているようだった。大学へ進学したいという気持ちはますます強くなったが、自分が彼らに追いつくことができるのかどうか、不安も同時に募るのだった。

 今でもそうだろうが、当時も都会に憧れを抱く若者は多かった。シンバイル君たちの話に熱心に耳を傾ける高校生たちも、やはり都会での暮らしを空想しながら聞いていたはずだ。しかし、中国には田舎から都市部への移住を制限する制度があり、住む場所を自由に選ぶことができない。そうしたなか、大学への進学は地方出身者が都会へと移り住む可能性を拓くチャンスの1つになっていたため、多くの若者がそこに殺到した。当時は大学の数自体が少なかったこともあり、大学生になるには本当に狭き門をくぐらねばならない状況だった。シンバイル君の母校は内モンゴル自治区でも有数の進学校だったが、それでも大学への進学率は2割程度だったのである。私は、同じく大学受験を目指す高校生たちに囲まれながら、彼らと競い合う狭き門に挑む覚悟があるのかを自問自答していた。

 さらに半年ほどを費やし、ざっとではあるが高校の教科書を通読し終えた。まだ速成の付け焼刃でしっかり身になっていないという自覚はあったが、バージン先生が模擬試験を受けさせてくれるというので、力試しにと挑戦してみることにした。結果は散々で、どこの大学にも合格できない点数だった。バージン先生は気落ちするなと励ましてくれ、勉強方法の改善点も指摘してくれたが、私はなかなかショックから立ち直れず、無謀な挑戦を始めてしまったことを後悔すらしていた。図書館の仕事に不満があるわけではないし、大学になど行かなくとも好きな本に囲まれながら気ままに暮らしていければいいじゃないか。いや、世の中には1人ではどう頑張っても手にすることができない知識がある。ここで逃げてしまえば“文明”にたどり着くことは永遠にできないぞ――。さまざまな想いや迷いが、頭のなかでぐるぐると堂々めぐりを続けるのだった。

 

予想外の結果

 夜の勉強は続けていたが以前ほど身が入らず、つい受験勉強とは関係のない本を手に取ってしまうことも多くなっていた。そんなある日、職場の図書館で『簡潔中国歴史』という本を手にした。作者は歴史学者のようだったが、一般の読者向けに書かれた読み物だった。教科書には階級闘争が歴史を動かすという理論を下敷きにした社会制度の変遷が描かれているほか、歴代王朝やその皇帝の名前が羅列されているだけの無味乾燥なものだったが、『簡潔中国歴史』ではそのなかで起こった出来事やその背景が詳しく解説されており、歴史上の人物が人間らしく動き回っているさまが浮かび上がるようだった。これまでは単に暗記科目だと思っていた歴史だが、この本を読むと俄然興味深く感じられた。それだけでなく、歴史の構造と文脈がごく自然に理解でき、受験に必要な知識もその流れのなかに位置づけることですんなりと身についていくのを実感した。歴史の面白さに気づいた私は、歴史学者が書いた読み物や大学生向けの概説書などを探しては、読み物として読むようになった。アーノルド・トインビーの『図説 歴史の研究』やフィリップ・L・ラリフ『世界文明史』などを立て続けに読むなかで、歴史は階級間の矛盾によってではなく、国や民族の対立や宗教や信条の違い、経済的な競争、そして偶然の出来事にすら左右されて紡がれてきたということが分かってきた。チンギスハーンが礎を築いたモンゴル帝国が世界史の流れそのものを左右する大きな存在だったことが理解でき、歴史と私自身の結びつきを発見することもできた。一見すると無駄が多いようだが、受験用の教材ばかりに拘泥せず、関連する本を幅広く読むこともよい勉強になるのではないか。そう思った私はしばらくのあいだ教科書を離れることに決め、知的好奇心の赴くままにさまざまな領域の学者が書いた本を読みあさっていった。この作戦は見事に功を奏し、数か月後に再び受けた模擬試験ではなんとか合格水準に手が届くところまで点数が伸び、とくに歴史と数学の得点は飛躍的によくなっていた。

 辛さを忍んで机にかじりつくのではなく、面白さを見つけながら勉強を進めることで、その後も徐々に成績は伸びていった。図書館での仕事と受験勉強の二足の草鞋を履いた3年は、振り返ってみればあっという間だったようにも思う。1984年の夏、18歳になった私はいよいよ大学受験に臨み、予想外の高得点を得て、全国でも最難関の1つに数えられる北京大学法学部に合格が決まった。驚いたのは自分だけでなく、友人や先生たちも目を丸くしていた。採点ミスではないか、似たような名前の受験者と入れ替わったのではないかと大騒ぎされもしたが、その年の秋には無事に北京での学生生活を始めることができたのだった。

 

 草原で育ち、10代の半ばでようやく文盲から脱した私にとって、大学受験は無謀ともいえる挑戦だった。それでも、大きな壁に挑む勇気をくれた友人や、辛抱強く見守ってくれた大人たちの力を借りて、最後まであきらめずにやり遂げることができた。それだけでなく、いつも近くに寄り添い、挫けそうになるたびに支えてくれたのが、会ったこともない先人たちが残してくれた数々の本だった。教科書のようにぎりぎりのところまで圧縮された文字の塊だけが大切な知識なのではない。書いた人の想いや息遣いを伝える言葉もまた、読み手にたくさんの学びをもたらし、想像を刺激してくれる。受験勉強を通じて、私は本との付き合い方をより深く知ることができたのだった。

 

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*1:ボルドさんが首にかけていた赤と黒のチェック模様のマフラーの鮮やかさは、大都会の洗練されたファッションを体現しているかのようだった。社交ダンスを踊っている最中に立体幾何の解析法を思いついて頭から離れなくなり、手足がもつれてしまって相手の女性を怒らせてしまったというエピソードなど、大学生活を面白おかしく話してくれたことも印象に残っている。

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