第24回 「仕事」

教壇に立つこと

 大学卒業後には北京で就職することもできたが、大都会での暮らしには少し疲れていたし、やはり故郷に戻りたいという気持ちが決め手になり、結局は内モンゴルで働くことにした。当時の中国では、高等教育を受けた若者の就職先は政府機関によって割り振られるのが普通だったが、ある程度選択の自由はあった。職種の選択肢は2つ、政府機関である司法局で公務員になるか、その司法局の管轄下にある法律専門学校の教員を務めるかだった。私は学校で勤務したほうが比較的自由に使える時間があり、いろいろな本や人に出会うこともできると考えて教員を志望した。

 赴任先は内モンゴル法律専門学校に決まった。とはいえ初年度の前期は正規の担当科目はなく、学校が請け負っていた通信制大学の週末講座「国際私法」のみ受け持つことになった。授業開始までひと月を切ってから担当が決まったため授業準備をする時間が足らず、資料も学生用の教材と教員用の指導マニュアル以外になかった。本来であれば十分な関連事例をもとに準備を進めなければならなかったが、限られた時間と資料のなかでは香港、台湾、そして内外モンゴルの事例をいくつか集めるのが手いっぱいだった。全10回の講義はなんとか無事に終えることができたものの、受講生に十分な知識を伝えられたかどうか、最後まで自信は持てなかった。学生として授業を受ける側にいたときは簡単に思えた内容でも、いざ教壇に立ってみると、納得のいく講義として組み上げるのは容易ではなかった。いまさらながら学生時代を振り返っては、退屈な授業をさぼったり居眠りをしてきたことを後悔するのだった。

 後期からはいよいよ正規科目を教えるよう指示を受け、「憲法」と「民族自治法」をモンゴル語で、「自治法」を中国語で講義することになった。内容が伝わっているのかどうか不安だった前期の経験を生かし、それらの授業では毎回学生から評価をしてもらうことにした。すると中国語での授業に比べてモンゴル語で行う授業の満足度が低いことが分かり、理由を詳しく聞いてみると専門用語が難しくついていけないという意見が多く寄せられた。中国語の教材を私自身が翻訳したうえでモンゴル語での授業を行っていたため、どうしても専門用語が生硬な言葉になってしまっていたのだろう。内モンゴルでは改革開放を迎えるまで法律を専門とする高等教育機関がなかったこともあって、漢語とモンゴル語の専門用語の翻訳はかならずしも厳密とはいえず、曖昧な部分が多く残されていた。

 どうすればモンゴル語での授業を聞きに来てくれる学生たちに理解しやすい講義ができるだろうか。しばらく煩悶する日を過ごした末、モンゴル語の簡易法律用語集を作ってみてはどうかというアイデアが浮かんだ。幸いに同僚の理解も得られ、法律関連の訳語を選定し注釈をつけた用語集を共同で出版することができた。この冊子を参照して授業を行い始めてからは教員によってまちまちだった表現にも一貫性が出るようになり、モンゴル語で受講する学生たちの評価も徐々によくなっていった。

 学生を指導する上での心構えとコツについては、憲法と行政法の部門長だった孫先生からたくさんのことを教えられた。孫先生は浙江省に生まれ1950年代に大学を卒業したが、文化大革命がはじまると“反革命分子”の濡れ衣を着せられ、内モンゴルの田舎で18年間も肉体労働をさせられてきた人だった。孫先生は若手の人材育成に熱心で、当時1人だけの新人だった私はとくにお世話になった。ときにはわざわざ私の講義を聞きに来て分かりにくかったところを指摘してくれ、自作した教案をもとに指導のポイントを細かく教えてくれることもあった。1990年の夏に孫先生が退官されたとき、お礼の気持ちを込めて街のレストランにお招きして酒を酌み交したことは、今でも忘れられない思い出である。

 

人類と地球の未来

 図書館で働いていた当時や大学生の頃は、足繁く本屋に通っていたものだった。しかし、内モンゴル法律専門学校で教鞭をとるようになってからは、講義や事務仕事をこなすのに精いっぱいで、ゆっくり本を探す暇もなくなっていた。また、専門学校のあったフフホトは内モンゴルの中心都市ではあったが、やはり北京に比べれば学術書は手に入りにくく、新刊情報も入りにくかった。そこで、私はしばしば北京や上海にいる友達に手紙を書き、流行の本やお勧めの学術誌を教えてもらうようになっていた。そうして出会った本は数多いが、とくに印象に残った本が2冊ある。奇しくも同じ年、1988年に出会ったこれらの本について簡単にご紹介しておきたい。

 1つ目は、麦天枢によるノンフィクション作品、『移民における西部』(原著タイトル:『西部在移民』)である。中央政府は1983年から1993年までの10年の間に、中国西部に位置する甘粛省や寧夏回族自治区の貧困層70万人を、さらに西の人口希薄地域へと移住させる計画を実施した。麦天枢は現地取材を重ねてこの作品を書いたが、そこには私にとって衝撃的な内容が綴られていた。それは次のようなくだりである。

 砂ぼこりが舞い上がるなかで1台のトラックが走って来た。するとボロ布を継いだ服を着た人々が桶を片手にトラック目掛けて走り寄っていった。見れば子供も混じっている。この人たちは一体何をしているのか。運転手は人々を並ばせて桶に1杯ずつの水を配り始め、人々はそれを受け取って貧弱なつくりの家々へと戻っていく。作者は聞き取りをしようと民家を訪問して回るが、忙しいと誰も相手にしてくれない。人々はすぐに伐採され尽くした禿山に出向き、燃料にするため草の根を引き抜くのに精を出すのだった。

 私が衝撃を受けたのは、豊かさを手にしつつある都市の生活とはあまりにもかけ離れた地方の貧しさだった。同時に、人間が生きるために自然環境を徹底的に利用し、破壊しつくしてしまうことへの違和感も覚えた。自然は人を生かしてくれる存在であるはずなのに、なぜそれをいとも簡単に壊してしまうのか。自然を敬い慈しむことをやめて、人間だけが生き残れるはずがないではないか。すくなくとも私が生まれ育った内モンゴルの草原では問われるまでもなく幼い子供でも感じ取っていたはずのことだった。それが通じない世の中があることに、あらためて気づかされたのである。

 もう1冊は何博伝の『山に囲まれた中国』(原著タイトル:『山坳上的中国』)である。同じ職場で働いていた先生が北京で話題の作品だと言って貸してくれた本だった。作者は広州市の中山大学に務めていた人物で、当時30代の若手講師だった。この本を日本語に*1翻訳した大野静三は、史資料にもとづく議論から現代社会の諸問題まで扱われる範囲が多岐にわたっていることから、この本がたった1人の手で書かれたとは信じられなかったと述べている。何博伝はこの作品で、大量の統計データを用いながら人口増加と環境の悪化、食糧問題について論じ、中国の将来に向けて警鐘を鳴らした。人々は目の前の豊かさを追い求めるために環境を犠牲にすることをためらわない。それを抑制すべき政治には腐敗がはびこり、官僚や知識人の関心は自らの利益にのみ集中している。この作品はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の中国版とも呼ばれるように、その後の中国の未来を予測したものでもあった。当局からの弾圧を恐れず自らの意見を言葉にした勇気も含め、中国の環境問題に関する議論としては他に類をみない深さを備えたものだと思う。

 『西部への移民』、『山に囲まれた中国』の2冊を通じて、私は人類の未来、地球の未来に思いを馳せる手がかりを得た。そこに描かれているのは決して明るい未来ではなく、読むものに苦い気持ちを運ぶが、そこにこそ現実に向き合うことの必要性を学ぶことができるのだろう。

 

*次回の更新は、2019年1月10日(木)の予定です。

 

*1:大野静三ほか訳『中国・未来への選択―かくも多き難題の山』日本放送出版協会、1990年。

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