第23回 法治への道③「卒業」

故郷への自転車旅行

 フランス語の女性教師ボワ先生は、しばしば学生寮に遊びにきてくれた。私も先生と安いビールを飲みながら他愛もない話をするのが大好きだった。ボワ先生の趣味は自転車旅行で、夏休みや冬休みの度に恋人と一緒に中国の色々な地域を旅していた。先生がフランス語訛りの中国語で語る体験談は、都会育ちの学生たちも驚くような田舎の話が多く、私にとっても新鮮だった。

 1987年の夏、ボワ先生のカップルと私は、3人で北京からシリンホトまで自転車旅行をすることになった。私はオンボロの中古自転車を買って修理し、旅支度をしながら出発の日を指折り数えた。道中では田舎の風景を楽しみ、ときには民家を訪問してお茶をご馳走になることもあった。夜はだいたいが野宿で、ボワ先生たちはテントを張って寝袋に包まり、私は干し草を探してきて布団にして眠った。食事は私の担当で、昼間のうちに農家で豚肉や鶏肉、野菜などを分けてもらい、道端に落ちている家畜の乾燥した糞を拾い集めておいて、ありあわせの石やレンガで即席のコンロをこしらえて料理をした。

 ボワ先生たちとの旅はとても楽しかったが、私のオンボロ自転車はトラブル続きだった。修理を重ねながらだましだまし乗っていたが、張家口に着いたところでついに頑として動かなくなってしまった。仕方なく先生たちとはそこでいったん別れ、私はバスに乗ってシリンホトに先回りし、先生たちの到着を待つことにした。無事を祈りながら待つこと1週間、ボワ先生たち2人は無事にシリンホトまで完走し、元気な姿で再会することができた。私ははりきって草原を案内し、新鮮なヒツジの肉をお腹いっぱい食べてもらい、馬で小旅行を楽しんだりした。シリンゴルでは文化大革命を経て十数年ぶりに開かれたナーダムも見物することができた。

 お世辞かもしれないが、旅の道中でボワ先生たちはしきりに私の「サバイバル能力」を褒めてくれた。食事や野営、壊れた装備の修理などに関する手仕事は、私にとっては当然のことだったのだが、2人は私との旅の生活を通してモンゴルの遊牧文化に触れることができた気がすると言ってくれた。一方では私もまた、毎朝2人が漢方薬のような味がする黒い飲み物、つまりコーヒーをすすって目を覚ます習慣など、ヨーロッパの文化に触れていたのだろう。この旅が思い出深いものになっているのは、そうした文化の違いを考えるきっかけになる体験だったのかもしれない。先進的な「文明」を身につけたフランス人が、モンゴルの文化に興味を持ってくれている、それが私にとっては嬉しかった。その頃の中国では、少数民族の生活は「原始的」な遅れたものであり、そうした文化を捨て去っていくことが「進歩」なのであるとみなされていた。私自身もまた、それを否定できず辛い思いをすることがあったからである。

 

孤独との闘い

 まだ大学に入学したばかりの頃のことだった。私はヒツジの塩漬け肉を故郷から持ってきていた。食堂で買ったおかずを寮に持ち帰り、この塩漬け肉を調味料代わりに炒めて食べるのが大好きだった。ところが、漢族の学生たちからは臭いとか気味が悪いと文句を言われ、外で料理するなど気を遣わなければならなかった。不快な思いをさせてしまって申し訳ないなという気持ちはあったが、あるとき同級生がこの塩漬け肉を窓の外に置いて野良ネコに喰わせているところを見てしまい、さすがに我慢できずに大喧嘩してしまった。

 もちろん、大学には気の合う友達はたくさんいたし、尊敬できる友達もいた。それでも、少数民族を遅れた、野蛮な、あるいは可哀そうな人々としてみることは当時の中国ではごく自然な発想で、ふとした会話の端々にも感じられた。そうしたとき、私は表情だけは平然と取り繕いながらも、心のなかではやりきれない孤独を感じるのだった*1。そうした気持ちは、北京での生活を送るなかで常に付きまとって離れなかった。孤独にさいなまれるとき、私は独り本を開き、本のなかに逃げ込んでいた。都会での生活で感じる疎外感や「文明」に同化しきれない焦りを癒してくれるのは、レッテルを貼られていない生身の私とだけ向き合ってくれる本との対話だったのである。

 

卒業

 1988年7月、私は大学を卒業した。そのときは忙しく授業や試験をこなして単位を取得し、厳しく生活が管理される日々がようやく終わったという解放感の方が強かったが、振り返ってみればやはり青春時代の楽しい思い出がよみがえる。授業中にノートをとるのが苦手だった私は、いつも同級生の高君と李君に助けてもらっていた。とくに李君のノートは簡潔に要点がまとめてあり、何回か読むだけでほとんどの試験で及第点を取ることができた。秘訣を尋ねると、授業中は先生の話をとにかく漏らさず書きこみ、その日の夜に整理し直して新しくノートをつくるのだということだった。私ではそもそもまったく筆記が追いつかないので土台無理な芸当だった。高君も在学中に「正当防衛について」という論文を書いて学術誌に投稿し、卒業論文は翌年出版されるなど優秀で、やはり尊敬できる友人だった。

 もちろん、勉強ばかりしていたわけではない。その頃の北京で人気だった「五星」ビールは、大学時代に何百リットル飲んだか分からない。卒業式の後、外国語の先生に連れられて北京で一番の繁華街王府井にあるマクドナルドで初めての「洋食」を食べたのも忘れられない。コーラは炭酸が鼻にきて味わえなかったが、チーズバーガーやチキンナゲット、フライドポテトと、食後に飲んだココアは思いのほか美味しかった。改革開放への路線転換から10年が経って、北京の街並みとそこに住む人々の生活は確実に変わりつつあった。大学に通っていた4年間にも高層ビルや通りを走る自動車がずいぶん増え、地下鉄も開通していた。街ゆく人たちの服装もおしゃれになり、映画館や美術館、食事やお酒を手軽に楽しむレストランもあちこちに見かけるようになった。

 しかしその一方で、娯楽や芸術を享受するための作法はまだ根づいてはいなかったように思う。卒業を前に、小澤征爾が指揮をとるオーケストラのコンサートを見に行ったことがあった。恥ずかしいことに私も演奏のよしあしなどさっぱり分からず、文化的な体験をしに行っただけだったのだが、次の日の新聞で聴衆のマナーの悪さが取り上げられていたことには考えさせられた。開演時間になっても会場のお喋りが止まなかったので、海外から招聘した一流の指揮者を舞台に立たせままずいぶん待たせていたというのだ。これからは中国人のマナーを向上させなければならないという記事だったが、その場にいたはずの私が何も感じていなかったということがショックだった。「文明」に近づくということが、高層ビルを建てるということとは別の何かなのだということを感じた出来事だった。

 

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*1:日本に来てから読んだ本だが、この頃の私の気持ちを表現してくれている一節がある。「『孤独』は山になく、街にある。1人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にあるのである。孤独は『間』にあるものとして空間のごときものである。『真空の恐怖』――それは物質のものでなくて人間のものである」(三木清『人生論ノート』74頁より)。

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