第48回 「シベリアへ①」

ひと山越えて

 博士課程に進学してからは、大興安嶺での調査を続けつつ、トナカイ放牧を営むエヴェンキ人が経験した社会変化をテーマとしてひたすら研究に打ち込んだ。博士論文を書きあげる目途がついてからは、中華料理店でのアルバイトも辞めてさらに執筆に集中することにした。努力の甲斐あって博士論文は無事に審査を通過し、博士課程進学から4年目に博士号を取得することができた。

 学位授与式が終わってすぐ、感謝の言葉を伝えるため鹿野先生の研究室を訪れた。先生はお祝いにと自著にサインを入れて手渡してくれ、これからの身の振り方はどうするのかと尋ねられた。非常勤の講義を3つ担当することになっているが、それ以外にさしあたって予定はないと答えると、「お前はもう独立した研究者だ。これからは自分で判断できるね」と背中をポンと押すような言葉をいただいた。

 この会話を最後に、私は研究生の頃から8年間もお世話になった金沢大学の文化人類学教室を去ることになった。鹿野先生の言葉は大切なことのように思えたが、当時の私は研究者になるという目的意識を強く持っていたわけではなかったため、結局は真剣に受け止めることなくやり過ごしてしまっていた。博士論文を書くという大きな山を乗り越えてしまってからは、新たに目指すべき場所を見つけられないまま漫然とに日々を過ごすようになっていた。

 春学期に入ると、金沢大学、北陸大学、石川県看護師専門学校と3つの学校で文化人類学の概論講義を担当し、毎週教壇に立つことになった。自分なりに分かりやすい講義をしようと工夫したつもりだが、学生の反応はいまひとつで、やはり教育とは難しいものだと実感させられた。さらにショックだったのが、北陸大学法学部の3・4年生を対象に行った講義で実施した授業評価アンケートの結果だ。20名あまりの履修生のうち3分の1近くの学生から「授業内容が分かりにくい」という評価を受けてしまい、目標を失って弛緩気味だったこのときの私は、これを機に講義を一新して頑張ろうという気力もなく、ただ打ちひしがれるばかりだった。

 夏休みに入ってからようやく、このままではいけないという気持ちが沸いてきた。のんびりしていると、この気持ちもすぐに忘れてしまうかもしれない。そう考えた私は、大興安嶺の自然のなかでじっくり将来のことを考えてみようと、すぐさま中国行きの切符を買いに走った。

 この頃、オルグヤ村一帯では政府の方針で住民移転が進められていた。トナカイを飼育するエヴェンキ人のほとんどが移転には反対だったが、政策移住は着々と進められていた。ウラルトさんはこの移転政策をめぐって積極的に活動をしており、住民との話し合いや説明会、政府機関が催す有識者会議などで忙しくしていた。私も何度かメディアの取材を受け、トナカイ牧畜民の伝統や立場を代弁することもあった。

 取材を受けたとき、職業を聞かれると日本の大学の非常勤講師だと答えていた。しかし、中国のメディア関係の人たちには大学で非常勤の仕事をしているということがうまく伝わらず、「無職のエヴェンキ研究者」と新聞に書かれたこともあった。非常勤であっても仕事をしながらのんびり暮らすのは悪くないと思っていたが、無職という言葉には少し考えさせられた。トナカイを育てて暮らすエヴェンキ人は立派な牧畜民だし、妻も会社の勤め人だ。私自身だけを考えれば無職でもなんでも構わないが、エヴェンキ人やこれまでお世話になってきた人たちに恩返しをするために、小さなことでも何か役に立てる人間になるべきなのではないか。政策移住によって「牧畜民」であることを捨て去って新しい何者かになることを迫られる人たちを前に、私もまた、何者になるべきかを考えねばならないと感じた。

 

次に目指すのは

 まず考えたのは、私は果たして研究者になりたいのかということだ。そもそも研究者とは何なのかも、考えてみればよく分からない。大学の研究職に就いていれば研究者なのかもしれない。では、研究職のポストはどのようにすれば得られるのだろうか。それまでほとんど考えたことがなかったと、いまさらながらに気づかされた。

 一番やりがいがあるのは料理人の仕事だろう、そう考えたこともあった。とはいえ開業資金もないしどうしようか・・・と悩むうち、よく考えてみれば料理は家で毎日することなので、わざわざ仕事にしなくてもいいかもしれないという気持ちになってしまった。

 では、やはり文化人類学の研究を続けていくべきなのだろうか。日本や中国の友人たちに相談すると、せっかく博士号までとったのだから研究者になった方がよいという意見がほとんどだ。確かに文化人類学の論文や民族誌を読むのは楽しいし、エヴェンキ人ともっと深いつながりを持てるようになって、彼らの役に立ちたいという気持ちもあった。しかし、学会誌でたたかわされるような理論的な論争などにはあまり興味が沸かず、私が研究者になったとしても学術界の発展などに貢献できるとは到底思えなかった。

 もやもやとした想いを抱えながら1年ほどを過ごした頃、大学院時代に集中講義でお世話になった佐々木史郎先生が、ポスト社会主義を人類学的にどう考えるかをテーマとした研究会に誘ってくださった。ロシアや東欧、モンゴルでフィールドワークを行う若い研究者が集まっており、さまざまな地域の現在的な状況を知ることができた。またロシアのエヴェンキ人についての調査成果をまとめた佐々木先生の発表もとても印象的で、しばらく冬眠状態だった私の知的好奇心が目覚めていった。佐々木先生からは「思さんも、いずれはロシアのエヴェンキについて研究してくださいね」という言葉をかけていただき、新しいフィールドへと向かう情熱が沸いてきたのだった。

 幸運なことに、2004年の秋に大興安嶺で開かれた研究会議の席で、ロシア領内のシベリアからやってきた何人かのエヴェンキ人と知り合うことができた。ロシア語はまったく話すことができなかったが、エヴェンキ語だけでも意思疎通は十分にとれた。シベリアのクラスノヤルスク辺境区やチタ州から来た彼らからは、いずれロシアにもぜひ来てくれと誘いを受けた。会議場ではタイガの自然やエヴェンキ人の狩猟が記録された映像も観ることができ、すぐにでも飛んでいきたいという気持ちを抑えることができなかった。

 このときふと、研究者になりたいかどうか、どうすればなれるのか、といったことで悩むのがばかばかしいことのように思えてきたシベリアの自然にわけ入ってみたい、野生動物を相手に狩猟をしてみたい、トナカイとともにどこまでも行ってみたい。それだけで十分なのではないか。やってみたいという感情が沸きあがるうちは、余計なことなど考えずにそれを目指せばいいのではないか。そう考えることで、すっと肩の荷が下りたような気がした。

 

シベリアへ

 ところが、実際にロシア行きを計画してみると、さまざまな困難が浮かび上がってきた。中国のパスポートを持っている私がビザなしで滞在できる国は1つもなく、ロシアのビザ取得も相当な難関とされていた。方々手を尽くして調べたところ、語学を勉強する名目でロシアの大学に留学するのがもっとも手っ取り早いらしい。やがてクラスノヤルスク大学に中国人向けのロシア語コースがあることが分かり、さらに同大学で長年日本語講師をされていた石川県出身の金子さんという方の助力を得ることができ、2005年8月からこの大学の外国語学部に留学することが決まった。

 日本を発ったのち、ハイラルに立ち寄ってウラルトさんたちに挨拶をしてから、いよいよクラスノヤルスクへ向かうシベリア鉄道に乗りこんだ。車掌の親切か、あるいは差別だったのかもしれないが、4人用コンパートメントの乗客は全員が中国人留学生だった。私以外の3人はハルピン市出身の若者で、ノヴォシビルスク大学で勉強する留学生だ。すでに数年前から留学している学生もいて、彼らはロシア語が難解だと口をそろえて教えてくれた。

 タイガの森のなかを走り続けること一昼夜、列車はブリヤート共和国の首都ウラン・ウデで途中停車した。有名なバイカル湖が近くにあるはずだが、あいにく駅から眺めることはできない。それでも、バイカル湖で採れたオムルという魚の燻製がホームの売店で売られていた。私はそれを20尾分買い、同室の3人と分け合って食べながらロシア語のアルファベット33個を教えてもらった。

 ウラン・ウデからイルクーツクまで、列車はバイカル湖の湖畔沿いに走る。オムルの燻製をつまみにウォッカを飲み、車窓に広がる美しい景色のなかにフィールドワークを行っている自分の姿を重ね合わせてみる。言葉にならないほど素晴らしい体験だった。留学生3人に教えてもらうロシア語の勉強にも身が入る。

 イルクーツクからさらに1日、私たちを乗せた列車はクラスノヤルスクに到着した。改札を出ると、日本語教師の金子さんがホームステイ先の家族を連れて、私を迎えに来てくれていた。私は、覚えたてのロシア語で簡単な挨拶を披露したのだった。

 

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