第19回 日本への憧れ②「邦画とドラマ、アニメ」

 

 改革開放が軌道に乗りはじめた1980年代も半ばになると、海外の映画や音楽が市井の人々の手元にまで届くようになった。とりわけ若い世代はこれを歓迎し、生活に彩りを添える娯楽としてだけでなく、新たな時代に向けて自由な発想を刺激する糧として受け入れた。私にとっても、この頃にみた作品は忘れることができず、感銘を受けたシーンの数々を鮮やかに思い返すことができる。とくに日本の映画やドラマからは大きな影響を受け、それは今でも私のなかに息づいている。

 

映画

 佐藤純彌監督の『君よ、憤怒の河を渉れ』(中国語タイトルは『追捕』)は中国でもっとも親しまれた海外映画のひとつに数えられ、主演の高倉健と中野良子は人々の心を虜にした。若者たちのあいだでは2人の髪型が流行し、主題歌は街角に響いた。反戦と女性差別を主題にした栗原小巻主演の『サンダカン八番娼館 望郷』も、政府が推奨したこともあってロングランを続けた作品だった。観客数では『君よ、憤怒の河を渉れ』や『サンダカン八番娼館 望郷』に及ばないものの、『野性の証明』や『人間の証明』も、中国の人たちの記憶に残った名画である。現在の映画評論でも、この時期に相次いで公開された日本の作品は中国に大きな衝撃を与え、広く社会現象を巻き起こしたと回顧される。かくいう私は今でも昭和映画の大ファンで、数えきれないほどの作品を見てきたが、とくに次に紹介する2本は珠玉の作品だと思っている。

 松本清張の長編推理小説をもとに製作された野村芳太郎監督の『砂の器』は、たまたま立ち寄った映画館で見た作品だったが、重厚なテーマを洗練されたかたちで展開し、観衆を社会問題の本質へと誘う素晴らしい映画だった。解決不可能とされていた殺人事件を捜査する刑事2人の執念と、ハンセン病の父を持つ事実を世から隠そうとするあまり殺人を犯してしまう音楽家の非業の宿命が描かれた作品である。持って生まれた運命の責任を誰にも問うことができない葛藤、謂われなく社会から排除される苦しさ、そこから生じる他者への不信。そこに描かれた悲哀のすべてが私の記憶とぴたりと符合し、痛いほど伝わってくるのだった。

 山田洋次監督の『遙かなる山の呼び声』は、うだるような夏の暑さのなかシリンホトの映画館で観た。手洗いに近い座席しか確保できず、暑さに加えて悪臭で息が詰まりそうだったが、いつの間にかそれを忘れるほど素晴らしい映画だった。警察に追われる男と牧場を細々と営む母子が出会い、次第に惹かれ合うが、しばしの幸せが過ぎて別れの時を迎える。淡々とした物語ながら、じわりと心を満たしてくれる作品だった。舞台となった北海道の牧場の風景は故郷の草原を彷彿とさせ、現実と虚構が入り混じるかのようだった。男の帰りを待つことを決めて駅のホームに現れた倍賞千恵子の佇まいと、背を見せて涙する高倉健の表情。クライマックスの一コマを見て、名優の演技が映画を芸術へと昇華させることを知った。

 

ドラマとアニメ

 北京や上海など大都市では、1980年代からテレビも普及し始めていた。ドラム式の洗濯機の前で、エプロンをかけて家事をする主婦の姿。とても短い東芝のコマーシャルで、たったそれだけのことなのだが、私の記憶に鮮明に残っている。

 当時は放送局の数そのものがまだ少なく、しかも放送枠を自局制作の番組で埋めることができなかったため、香港や日本の番組が数多く放送されていた。香港のドラマでは「霍元甲」や「上海灘」が有名だった。日本のドラマでは「おしん」、「三四郎」、山口百恵主演の「赤いシリーズ」、荒木由美子主演の「燃えろアタック」などは全国的に人気を博し、これらのドラマが始まると街のみんながドラマに夢中になっているのではないかと思ってしまうほど、街は静まりかえっていた。「鉄腕アトム」、「一休さん」、「母をたずねて三千里」などのアニメも人気を誇った。これらのドラマやアニメは、まず全国区の放送局で、それが終わると今度は地方局でと繰り返し放送された。ドラマやアニメの流行は徐々にテレビの普及を後押ししたが、身の回りにはまだなかったため、実のところ私自身はこの頃さほどテレビを見る機会に恵まれていたわけではない。それでも当時のドラマやアニメの名前を覚えているのは、よほど話題にのぼっていたからだと思う。

 ただ、テレビアニメの「母をたずねて三千里」だけは思い出に残っている。あるとき友人の家に遊びに行くと、これから面白いアニメの再放送があるから一緒に見ようと誘われた。私たちは午前10時ごろから日が暮れるまで、食事も忘れてテレビにくぎ付けになった。印象に残る主題歌や声優の声、魅力的な絵柄、そして物語の面白さ。当時そこに惹かれたのはなにも子どもたちだけではなく、文化大革命のなかで育ち、子どもらしい子ども時代を経験できなかった若者たちもまた、過去の空白を埋めるかのようにアニメに夢中になっていたのである。

 映画やアニメだけでなく、昭和の歌謡曲も大いに流行した。「北国の春」や「昴」などはあまりに有名になりすぎて、中国の歌だと勘違いしている人も少なくない。谷村新司、五輪真弓、山口百恵やオフコースなどの歌は、どのように中国に入ったのかは知らないが、ダビングしたカセットテープが人から人へと伝わり、宝物のように大事にされていた。

 中国を代表する映画監督の一人であるチャン・イーモウ(張芸謀)は、日本の映画に魅了されて映画の道に進んだという。1960年代生まれの彼も、私と同じく青春時代に素晴らしい作品に出合ったのだろうと思う。昭和の映画や歌謡曲などの芸術は私たちに素晴らしい「美」を享受させ、中国の芸術界にも少なからず影響を与えた。偉大な監督と並べるのはおこがましいかもしれないが、私のなかでもやはり、映画や音楽との出会いは日本への憧れをかたちづくる大きなきっかけになっている。

 

 1984年の秋、当時中国の総書記であった胡耀邦は日中の交流こそが中国に必要だと信じ、日本の若者約3,000人を中国に招いた。私もその交流の場にいた青年の一人だった。北京の天安門広場は若者の熱気ではちきれそうだった。そこで出会った日本人はみな柔らかい表情をしており、やさしく、暖かかった。出会いの記念にとハンカチやペンをもらったが、そのときの私にはお返しするものがなかった。せめてお礼の気持ちを伝えたいのだが、もどかしいほどに言葉が上手く出てこない。身振りと手振り、そして顔の表情を総動員して、気持ちを伝えようと必死だった。突然、隣の学生が中国語で「北国の春」を歌い出した。すると日本人は日本語で歌い始め、同じメロディーに2つの言語の声が重なり合い、響き渡った。このとき確かに、音楽は国境を越えて人と人をつなぐ架け橋になっていた。

f:id:koubundou:20181121161741j:plain

『砂の器』筆者作成

 

 ▼前回の記事はこちら

Copyright © 2018 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.