第21回 法治への道①「期待と疑問」

歴史遺産と法治への期待

 1982年12月4日、中国では社会主義にもとづく憲法として4度目の憲法*1が施行された。新しい憲法では、大躍進や文化大革命というイデオロギー主導の政治運動がもたらした多くの不幸への反省から、法治理念に則った政府の設立、非暴力と人権の保障など、法治と民主主義を大原則として掲げていた。経済活動や信仰の自由も明記された。続いて1984年10月には、中華人民共和国民族地域自治法が適用された。このほか、新たな婚姻法、民法修正案や訴訟法など、1980年代には続々と法制度が生まれ変わっていった。大学で法学を専攻する一人として、私も“社会主義的法体系”の刷新を間近に見ながら、将来への期待を否応にも掻き立てられた。

 1986年、私は無事に大学2年生に進級し、憲法学、行政法、民法などより専門的な科目を履修することになった。授業では抽象的な話が延々と続くことは少なくなり、実学的なテーマが登場して面白くなってきた。当時、私も含め学生の多くは“公正”や“平等”の実現について高い関心を抱いていた。また、公正な社会、平等な政治は、法治による政治を徹底することによって達成されるものと素朴に考えていた。

 古代から近代まで一貫して、「国家」は人々の生命や財産を蹂躙してきた。国家による暴力を反省し、中国は民主主義にもとづく法治政府の構築を目指してきた。その背景には、中国の特殊な事情がある。中国は4000年とも言われる長い歴史を持つが、古代から近世まで一貫して、統治の原理は法ではなく“礼”であった。法とは暴力を制度化し、人々を罰する力に過ぎなかった。人権や財産を保護する法はないに等しく、統治の根幹はむしろ“礼”にあったのである。

 近代における西洋との接触を通じ、近代技術の力に屈服した中国は不平等条約を締結させられた。法律の面でもヨーロッパ型のモデルが導入され、法制度の大きな修正を迫られた。西洋の法律や制度を取り込むと同時に、欧米諸国にとって優位になるような条件を認めざるを得なかった。清朝末期から20世紀半ばまで、中国は徐々に西洋を模した民法や刑法を整備していったが、1949年に社会主義を掲げる中華人民共和国が誕生すると、そうした法制度は労働者階級を搾取することを手伝う道具として否定された。同時に社会主義にもとづく法律がつくられるのだが、大躍進から文化大革命へと続く動乱のなかでは法律は政治の前に膝を屈し、ないにも等しい存在であった。

 改革開放への転換が図られた1980年代には、あらためて法治国家が目指されるようになる。一般市民がそこに加わることはなかったが、大学生を含む知識人の間では来るべき社会のあり方をめぐって激しい論争が巻き起こった。学生には西洋における法治社会の思想に傾倒する者も多く、私もまた古代ギリシャとローマの法思想に関心を寄せていた。とはいえ、中国の歴史や法制度の伝統についての十分な理解に立脚した実践的な提案がなされたわけではなく、新しい響きの概念や専門用語に魅せられて机上の議論をたたかわせていたようにも思う。

 西洋の思想が学べる講座やセミナーは特に人気があった。会場の満席は当たり前、会場に入れずに扉や窓越しに講話に耳を傾ける若者も大勢いた。ある時、上海交通大学で教鞭をとる20代の若手講師がやってきて、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルの「存在(実存)主義と人道主義」について講演したことがあったが、今では考えられないほどの熱気が会場に溢れていた。実存の哲学と自由の関係など一度の講演だけでは分からないことだらけだったが、私を含め当時の若者が海外の思想や文化から何かを学ぼうと必死だったことは確かである。とはいえ、そこでは思想史の流れなどがきちんと理解されていたわけではなかったはずである。断片的に知識を吸収し、切り貼りして都合のよい道理をつくっていくという点ではそれまでの“革命思想”にも通じる危うさがあったと思うが、“闘争”や“解放”に代わって“自由”、“人権”、“平等”、“公正”などの言葉が輝いていたことも確かであった。

 

“走向未来系列”(未来へ向けて叢書)

 1980年代なぜ法治への志向が活発化したか。それは1970年末から起きった“文化”ブームと密接に関係している。当時の大学生は、ぼんやりとした理想と不安を同時に抱えていたように思う。社会をよくしたいがその具体的な方法はまだ見えておらず、少なくとも知識がないと何もできないことだけが分かっていた。だからこそ本を読み、西洋に学ぶことが近道だと考えたのである。

 そうした傾向ははじめのうち大都会の知識人を中心としたものだったが、“走向未来系列”(未来へ向けて叢書)、“文化:中国与世界系列”(文化:中国と世界叢書)など、学術的な格調を保ちながらも一般読者を想定した叢書が刊行されたことによって、地方の学生にも“文化”ブームの裾野は広がっていった。とりわけ未来へ向けて叢書は大学生の間で絶大な人気を博し、当時の世論を大きく左右した。

 たとえば、金観涛が編集した『“在歴史的表象背後―対中国封建社会超穏定結構的探索”(歴史の表象の裏で―中国封建社会における超安定構造への探求)』は、中国社会が長い歴史の過程を通じて法律よりも人治を好む堅固な構造を築き上げてきたのであって、来るべき改革はこの構造を打ち壊すことから始めねばならないとした著作である。文明史的な視点に立った立論の仕方には、まさに目から鱗が落ちるようだった。また森嶋通夫『なぜ日本は「成功」したか?―先進技術と日本的心情』からは、日本が独自の思想を温存しつつ西洋文化を巧みに織り交ぜて発展の道をたどったが故に帝国主義へと陥ったのだと、歴史を反省的に振り返る視点を学んだ。蘇功秦『儒教文化の苦境』は、19世紀に中国が欧米列強の侵略を受けた際の衝撃を綴った歴史書である。蘇功秦は、日本が文明化に成功し独立を守り抜いた一方で中国がそれに失敗したと述べ、儒教と結びついた封建制度が根強く残ったために、西洋から学びかつ対抗するという姿勢が採れなかったのだと論じている。李平嘩『人間の発見-ルターの宗教改革について』からは、西洋における中世から近代へと移行が宗教的構造の安定性にもとづいてなされたのだという通時的視点を学んだ。マルティン・ルター*2の改革によってキリスト教も近代に適合してゆき、個人の信仰の自由が認められた。ルターは教会の権威に挑戦して独自の解釈を貫いたが、これは近代化にとって大きな出来事だった。

 このほか未来へ向けて叢書には、アルビン・トフラー『第三の波』と『未来の衝撃』、ローマ・クラブの『成長の限界』、李醒民『激動の時代-紀転換点における物理革命についての歴史的・哲学的な考察』など数多くのベストセラーが収録されていた。当時としては珍しいポケットサイズの本で、1元ないし1.5元と学生にも手が届く価格帯で人気を博した。あまりの人気で常に品薄だったため、新刊の入荷予定日には友達と連れ立って早朝4時頃から書店に並んだものだった。

 法治と人治の伝統、宗教や経済を含む構造、民衆が抱く心情などさまざまな要因が絡まり合って歴史が動いてきたという視点は、大学の講義ではなく自ら手に取った数多くの本から学んだことである。そうした読書の経験を通じて、いつしか私は憲法や法律、民族自治などの制度の刷新だけで社会がよくなるという見立ては楽観的過ぎると考えるようになっていた。同時に、それまでは国際公法や国際司法に傾倒していたが、やはり足元にある現実をみるべきだと思い直し、中国の憲法や行政法を専門的に学ぼうと考えるようになったのである。

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未来へ向けて叢書の表紙(画像は下記・鳳凰網HPより引用)

https://book.ifeng.com/psl/tupian/200908/0823_6071_1315590_5.shtml
https://book.ifeng.com/psl/tupian/200908/0823_6071_1315590_7.shtml
https://book.ifeng.com/psl/tupian/200908/0823_6071_1315590_17.shtml
https://book.ifeng.com/psl/tupian/200908/0823_6071_1315590_18.shtml

*1:中国では、共産党が社会主義制度を確立した後、1954年、1974年、1978年、1982年に4度の憲法制定を行っている。1982年の憲法がとくに特徴的である。4大原則(人民、人権、法治、民主集中原則)が示され、人民の自由と権利の範囲を拡大したからである。この憲法は改正を重ねながら現在に至っている。

*2:ドイツ人の宗教改革者。1517年、カトリック教会による免罪符販売を批判した『95か条の論題』をヴィッテンベルク教会の門扉に掲げ、ドイツにおける宗教改革の端緒を開いたとされる。宗教改革は、ルネサンスや大航海時代と並んで近世ヨーロッパに生起した歴史的変動の1つであり、社会制度を大きく変えたことから「近代の幕開け」とされることもある。2017年は『95か条の論題』に始まる宗教改革の500周年にあたるため、ヨーロッパを中心として世界中で祭典が催された。

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